占星術は、読み手のセンスでニュアンスが
変わる部分があっても、基本的な
ロジックがあります。
それはある意味、運命論みたいな雰囲気を
作り出します。
しかし、そういう縛りがあるからこそ、
個人としての幸福を考えることが出来るのですが、
そのような制約が生み出す自由を受け入れた上で、
もっと人生を自分流に楽しみたい、
現状を改善したいと願うのであれば、
第12ハウスはうってつけです。
意識して使えている部分は、ほんの少しですから、
占星術等で「あなたは、こうですよね」と
少し言われると、当たってると感じるのですが、
また忘れて生活します。
普通に暮らしていれば、自分のことなんて、
忘れて暮らしているものだからです。
自分を意識し続けるのは、不幸な状態か、
難儀な時だけです。
そう言った意味では、自分自身を意識することは、
生き辛い時かも知れません。
普段は、自分を支えてくれているあらゆる一切のものも
忘れて暮らしています。
自分が生まれてくるために、連綿と繋がってきた
DNAの流れ等も3代くらいまでしか分かりません。
普段、忘れていたり、見えない部分に
未知の力や幸運が眠っています。
実体が全く分からないけれども、幸運を
呼び寄せるという行為を釣りに例えると
エサは、自分自身です。
釣り針も自分ですから、あくまでも、それぞれの尺度ですが、
自分自身が曲がった状態では、幸運はかかりません。
これは、第1ハウスから第11ハウスまでで
個として限定された自分です。
限定された部分があやふやでは、自分自身の個性が檻に
なってしまって自由自在に12ハウスに出入りは
出来ません。
スピリチュアル的アプローチが成立するのは、
人が意識して生きている部分以外だからです。
割合は、意識している以外の部分が多いのですが、
そこに入る入り口は、圧倒的に狭いものです。
人は、生育環境で身に付けた固定された考え方に
縛られて生きています。
その内容が素晴らしいものであれば、人生の幸福は
もう決まったようなものですが、そうでない場合も
けっこう多いように思えます。
個としての枠組みがないまま、12ハウス的なものに
飛び込むならば、そこは黄泉の国でしょう。
しっかりと12ハウスまでの流れを抑えた上で、
12ハウスに潜って、また第1ハウスに
戻ってくれば何か得るものがあるはずです。
その人らしさの自覚の程度に従って、どれくらい
12ハウスに潜っていられるかは変わってきますし、
サインや天体でも違ってきます。
ここでは、12ハウスに潜ると表現しましたが、
どこまでも上昇する感覚が適切な人もいます。
果てしない感覚の拡大の人もいれば、豆のように
小さくなるというか、あらゆる無駄を省いて
研ぎ澄まされることで12ハウスに
侵入出来る人もいます。
何をつかんで帰って来るかは、未知数ですから、
だからこそ「絶対に成功する」と信じられる人
でないといけません。
12ハウスという見えない世界は、
日常生活に隠された最後のフロンティアです。