あって母親そのものではありません。
どんなに酷い母親であっても実際に
否定することは、根本的な罪悪感を伴うので、
以下のような感じになります。
①、出来るだけ距離を取る。
②、諦める。
③、家出をして見つからないようにする。
実際に多いのは、②でしょう。
母親の言動については自覚的であれ、
無意識であれ諦めるのです。
スルーしかない状態なのです。
①の距離を取るは法的手段を駆使しでも、
家出をした子供を見付ける親もいますから、
親次第では実効性はありません。
ましてや同居していれば話になりません。
③の家出は少ないかも知れません。
常識的な社会システムに留まるという前提を
崩壊させない限り長続きしません。
ある意味そこが理解出来る子供にとっては
その部分が人質に取られているのです。
社会に参加する時に、両親が健在である
ということは、様々な後ろ盾になります。
親子関係が難しいのは情緒的にも
実際的にも否定的な感情と肯定的なものが
折り重なって身動きが取れないことにあります。
第9ハウスが示す母親のまなざしが支える情緒的な
ものだけではないのです。
そう言った意味で母一人、娘一人の家庭では
子供にとって逃げ場はありません。
夫婦であっても妻から逃げる時間がなければ
夫でも持ちません。
1対1のオポジションのような関係は、お互いを
捉えて離さないのでどうしようもなく
疲れてしまうのです。
母娘の関係は、1対1であれば、180度に
なる上に、同性同士でさらに逃げ場がありません。
お互いの考えや気持ちを察し易いからです。
家族間の殺人事件の多さは周知の通りですが、
通り魔的になってしまう犯人たちにしても
真に家族円満ならば他人を襲ったりしません。
愛があると感じていたら様々な意味で
そのようなことは出来ないのです。
殺人事件に至る様なエネルギーが、
どっちつかずのまま自分の心の中で右往左往
しているとしたら、その大変さが理解出来ると
思います。
ですから子供は弱い者イジメをしたりして
うさを晴らしたりします。
それは大人でも同じです。
弱い方へ弱い方へ負の感情を向けていきます。
そのような負のスパイラルに参加しないためにも
出方を間違えれば殺人事件になるような嵐を
ただじっと耐えたり抑えつけたりするよりも
能動的に諦める方法を作るしかありません。
これは良いところ取りですから、
ある意味ずるいことですが見方を変えれば
協力関係です。
能動的になるには罪悪感は敵ですから、
まずは自分の情緒的な支えである第9ハウス的
まなざしと実際の母親とを分けて認識することが
スタートになります。
自分自身である第1ハウスとトラインである
第9ハウスを拒否すると、育つものも
育たなくなりますし凹んだ時に
立ち直れなくなります。
第9ハウスが意味するものは凹んだ時に
再度、立ち直る方法でもあるのです。
母親と子供と言えども1対1の人間であって
そこには相性があります。
その部分と子供が生まれながらに期待する
母なるものとの関係性は別問題です。