神の愛とうざい人

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人の魂は、「愛はある」という感覚を求めて

彷徨います。

現実的な意味での愛は人と人との愛ですが、

私たちが愛だと感じる感覚は、誰かを愛したり

愛されたりするだけではなく、絵を描いたり、

歌ったり、料理を作ったり、使命感を感じられる

仕事をしたり、動物たちと触れ合ったり、

スポーツを通して愛を感じたり、

切りがないので止めますが、様々な方法で

愛を感じることが出来ます。

年齢を重ねるほど、このような愛の感じ方を

身に付けないと、いつまでも誰かに愛を求める

うざったい人になります。

これは老夫婦間にお互いを労わる気持ちが無い

ということではなく、自分のリズムで愛を

感じられる方法を持つということです。

このような愛でないとと埋められないものが

あるのです。

これは完全にオーダーメイドです。

自分の生まれ持った資質や環境に従って

少しずつ作っていくしかありません。

誤解を恐れずに書けば、これは神の愛を

感じるための自分独自の方法です。

このような道があるからこそどんなに

虐待された人でも奇跡的に立ち直る

可能性があります。

この愛は人間同士が交わす愛とは異なります。

中には深い関係を通してこのような愛を

感じる人たちもいて集団で行為に及ぶ人たちも

いらっしゃいますが、あれは完全に宗教的行為に

近いものでありお互いのパーソナリティーを

抜きにして深い関係の行為を利用して神を

感じるために行っているものです。

個人的にはそのような行為はお勧めしませんが、

そのような行為を通して神を感じる人たちが

一定数いる以上否定もしません。

上記のような特殊な例をあげたのは、それぐらい

様々な方法があって、もし自分自身がそのような

タイプであるならば、そのようなものもあり

ということをお伝えするためです。

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