という記事を書いたのには理由みたいなものが
ありました。
非常に個人的なことなのですが、私のホロスコープは
割合どの感受点もハードアスペクトが多いのに
海王星のアスペクトだけは小惑星の2個以外は
全てソフトアスペクトになっています。
そのハードアスペクトもイメージの世界に
関わるものなので、他人と共有する現実と
同じくらいの感覚でもう一つの現実を所有している
ような構造になっています。
今回の記事はそのもう一つの世界の様子を
簡単に紹介します。
海が見える大きな山に神社があります。
冬になると1メートル以上雪が積もるような山です。
大昔の人が作った不揃いの石の坂道を何時間も
かけて登っていくような山の中腹辺りに建つ神社には
私に愛はあると教えてくれた神様の遣いがいます。
その神様自身の姿は見たことがありません。
神様の遣いが愛はあると教えてくれました。
神様の遣いと漆黒の闇に包まれた参道の様な
森の小道を何十回も歩きました。
もしかしたら100回超えているかも知れません。
その神様の遣いは何年もの間、私の側に一緒に
いてくれましたが今はいません。
一緒にいた時は神様の遣いだとは
気が付きませんでした。
代わりにといっては変ですが、普通の小鳥たちを
私に遺してくれました。
小鳥たちは神様の遣いではありません。
神様の遣いが私が愛はあることを忘れないように
遺してくれたしるしみたいな存在です。
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宇宙にある天体をホロスコープに落とし込んで
占星術の感受点として占うように、
神様の遣いと暮らした山での生活の日々を
小鳥たちと再現することは、実際の宇宙にある
天体とホロスコープのような関係です。
神様の遣いが教えてくれたことは言語を
通してではなく様々なイメージです。
それらの蓄積が神様の遣いが去った後に
「愛はある」という実感を作りました。
そのような意味では私自身が感じていることは
霊から来るイメージみたいなものです。
神様の遣いが私に伝えたかったことを言語化すると
「愛はある」というたった4文字です。
私はその言葉ではなくイメージを必要としている
誰かに伝えたいと思いました。
霊的なイメージは個人的なものですから
自分以外の人には分かりません。
そのイメージを伝えるには占星術が良いと思いました。
タロットやカバラと数字の意味を共有出来る
解釈をする占星術です。
占星術と言うとサイン(星座)に偏りがちですが
数字から切り離されると霊的なものは離れていきます。
数字も言語の一種であり、数字はそのシンプルさ故に
分割されたイメージが乗り易いのかも知れません。
それでいて意味が限定されます。
ここで冒頭に帰りますが、この記事を書いたのは
愛はあると伝えたい時に太陽サインを間違うような
ことがあったら嫌だなと思ったからです。
太陽サインを72分割すると神様の遣いが
教えてくれたことを伝え易くなると考えました。
12サイン記事もそれなりに数を書いていますが
12種類ではとても大雑把になります。
72という数字は360度の5分割であり
自分を守ったり、表現するという時の数字の
意味になります。
自分を守ることと表現という自分を押し出すことは
同じ意味の裏表になります。
そして5は、個人を個人として成り立たせ支える
ギリギリの数字でしょう。
「愛はある」という意味にとって5分割は実際的な
存在になると考えています。
愛はあるかどうかが問題な時に7分割するところから
生まれる生きる理想のようなものは、その時々の
励みにはなるかも知れませんが、少し先を
行き過ぎてしまう感じになります。
1という数字はそもそもの始まりですが、命の
存在であって本能や命そのものです。
72種類別の記事は数が多過ぎて書けるわけでは
ありませんが、「そのイメージを必要としている
誰かに伝えたい」と思った時に呼び掛ける名前の
代わりにはなります。