死後の絆

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亡くなる直前に二日間前後の余白があります。

誰にでも必ずあるとは限りませんが、事故や

アクシデント等非業の死を遂げずに寿命を

全う出来るような死に方であれば体力的な命が

身体の中で底をついても二日間くらい何らかの

形で愛を伝える時間を残せる場合があります。

この二日間は、周囲の人が気付こうと思えば

気が付けるものです。

ただその意味が分からずに亡くなった後に

そうだったんだと理解します。

そう理解した時に微かに送られていたサインの

数々が愛おしく思えると同時にそれらを

きちんと拾いきれなかった後悔の念が残ります。

そのような念は、辛く思わずにいつまでも覚えて

おくとそれが亡くなった存在との絆になります。

亡くなってしまうと物理的には会えなくなりますが

そのような絆を通して近くに感じることが出来ます。

これを忘れてしまうともう簡単に連絡は取れなく

なります。

様々な要素が布を織るように時間を紡いでいますが

都合上、私たちは公の時間を基準にして生きている間に

何もかも忘れていきます。

忘れていかなくては、色々なものを受け入れなくては

何もかも間に合わなくなります。

しかし本当に忘れてしまう必要があるのでしょうか?

前向いて生きていくことと他の人や存在を愛することと

両立出来ないのでしょうか?

様々な答えがあると思います。

あって当然です。

ただ最後の二日間(一日、数時間ということもあります)が

作り出す後悔の念は、亡くなった後も繋がっているための

絆です。

そもそも絆は生きている者同士よりも亡くなった存在との

間に結ばれるものです。

命の余白はお互いが寂しくないように、すぐに忘れて

しまって自分を見失わないように、亡くなった存在が

浮遊した状態にならないようにしっかりと送り出して

もらうために必要な時間です。

自ら命を絶つことが良くないのは、このような時間を

持つことが難しくなるという側面もあります。

単なる変化ではなく次元が変わるような変化は、

それなりの準備期間が大切な働きをします。

変な例えになるかも知れませんが、小学1年から2年に

進級することと中学生が受験を経て高校生になる変化は

少し意味が違います。

少なくとも準備期間が必要になります。

エスカレーター式の場合もありますが、受験があると

思って考えて下さい。

亡くなることと受験勉強はまったく異なることですが

準備期間が必要なことは同じです。

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