亡くなって地縛霊になる人と憑依される人(美しい人を喜んで消した人たち)

事故物件でもないのに霊現象が起こる家や賃貸物件があります。

確かに事件や事故の記録は、残っていないかも知れませんが、

そのようなところでは、記録に残らない壮絶な虐待があることが

多々あります。

そして、その結果、亡くなっているのですが、家庭内のこととして

処理されてしまいます。

鬼畜のような所業を一身に受けて、無残な最期を遂げたのに

誰にも、そのことを知ってもらえないと言うことは、自分自身を

一人の人間としてまとめていた力が働かなくなると言うことです。

それは、その子の意思に反して、その人の意思に関係なく

分裂していくことを意味します。

そうなると自分自身の意思とは、関係なく、自分自身が何者

だったかも忘れて、その身に、その心に投げ込まれた憎悪や

嫉妬が溢れ出て来るのです。

それらと他の憎悪や嫉妬が繋がっていくと完全に自分自身を

確認するための自分らしさみたいなものが壊れてしまいます。

そうなると一個の霊としてではなく、自分という枠を失った

状態になります。

これが地縛霊みたいなものです。

人格がない強力な憎悪は、人格を求めて必死に憑依しようとします。

これは、憑依しようとする意思があるわけでなく、何らかの理由で

接点が出来た人間に自動的に引き付けられるようなものです。

私たち生きている人間も辛いことがあると自分自身をまとめることが

難しくなります。

それぞれの資質が別々に働いて責任が持てなくなると大変なことを

起こしてしまい易くなります。

自分自身を自分らしくまとめることは、大変です。

しかし、それを放棄すると何が正しいのか、さっぱり分からなくなります。

美しい人を喜んで消した人たちは、そんな人たちです。

自分自身をまとめる責任を全て放棄しているからこそ、いくらでも

酷いことが出来たのです。

自分自身の一部分の能力や立場をある教えに譲り渡してしまうことで

ある教えに憑依されたような状態になります。

自分自身をまとめることを放棄すると心は、無くなります。

子供が事件を起こしても教えに対して済まないと感じても、事件の

被害者や事件を起こした子供のことは、眼中にないのです。

ここで終わっても良いのですが、だったら、どうしたら良いのか?

と考える人もいるかも知れません。

あくまでも比喩ですが、耳なし芳一というお話があります。

芳一を守るために芳一の全身にお経を書いたのですが、和尚さんが

耳にだけ書くことを忘れてしまって亡霊に耳を持っていかれて

しまうお話です。

身体にお経を書いて亡霊から身を守るという行為をどのように受け止めて

自分自身に置き替えるかは、人それぞれですが、少なくともお経を書く

と言う行為は、占星術では、太陽のサビアン度数を活かすことです。

それをするための手段は、その他の天体や感受点で読みます。

太陽のサビアン度数は、お経の種類みたいなものを表しているだけです。

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