虐待の愛をどう捉えるか:3と4の愛仇(あいきゅう)

3と4の愛仇(あいきゅう)――虐待の愛をどう捉えるか

「虐待する親に愛はあるのか?」

これは、私のブログ「愛はあると伝えたい」に寄せられる質問の中でも、特に多いもののひとつです。愛はあったのか、それとも最初から存在しなかったのか。この問いに対する答えは、一筋縄ではいきません。

「3と4」は、虐待を受けた子どもの心理と、虐待をする親の在り方を象徴しているのではないかと考えます。

## 「3と4の関係性」から見た愛と虐待

数秘の観点では、
– **3** は「創造」「試行錯誤」「変化」「流動性」
– **4** は「秩序」「安定」「固定」「反復」

を象徴します。

3は新しい可能性を模索する力、4は既存の仕組みを維持しようとする力。ここに「愛仇(あいきゅう)」という矛盾したテーマが浮かび上がります。

### 虐待される子どもの心理:試行錯誤する「3」
虐待を受けた子どもは、しばしば「それでも愛されていたのではないか?」と考え続けます。
– 「あの時の言葉には、愛があったのでは?」
– 「もし自分がもっと良い子だったら、愛してもらえたのでは?」
– 「親にも事情があったのでは?」

こうして、子どもは愛を探し続けます。これはまさに「3」のエネルギーであり、試行錯誤しながら答えを求めるプロセスです。

### 虐待する親の心理:同じことを繰り返す「4」
一方、虐待する親は、しばしば「自分のやり方が正しい」と信じ、同じ行動を繰り返します。
– 「自分が受けた教育もこうだった」
– 「これが正しい躾(しつけ)だ」
– 「愛しているからこそ厳しくする」

これは「4」のエネルギーに近く、秩序やルールを維持しようとする姿勢です。しかし、ここで問題となるのは、その秩序が「支配」である場合、子どもを傷つけるサイクルが続くということです。

## 「愛はあったのか?」という問いの本質

この問いに対する答えは、単純に「ある」「ない」で片付けることはできません。

虐待する親の中には、「子どもを愛している」と言いながら、傷つける行動を取る人もいます。彼らの愛は、**支配や恐怖に置き換えられた歪んだ形の愛**です。しかし、子ども側には「愛されたかった」という強い願望があるため、「愛がなかった」と認めることが難しくなります。

この構図がまさに「愛仇(あいきゅう)」です。

– 子どもは「愛があった」と信じたい
– 親は「愛していた」と言うが、それは歪んでいる
– しかし、虐待は紛れもなく暴力であり、犯罪である

これは、虐待された人が抱える「認識の分断」を生み出します。「愛されていた」と思いたい気持ちと、「傷つけられた」という現実の間で揺れ動くのです。

## 3と4の愛仇をどう乗り越えるか?

「虐待する親に愛はあったのか?」

この問いに対する答えを見つけることは、簡単ではありません。ただ、ひとつ言えるのは、**「愛があったかどうか」よりも「自分がどう生きるか」が大切**だということです。

– 「愛されたかった」という気持ちは自然なもの
– しかし、それが「親を許すべき」というプレッシャーに変わる必要はない
– 「虐待は虐待」であり、愛の名のもとに正当化されるべきではない
– 親の歪んだ愛ではなく、**自分自身を大切にすることが最優先**

3と4の対立は、葛藤を生みます。しかし、それを乗り越えるには、「5」(3+4)という新しい選択肢を見出すことが大事なのかもしれません。5は「変化」「自由」「新しい道」を意味します。

虐待された過去を持つ人が、その影響に縛られず、自分自身の人生を歩んでいくこと。

それこそが、本当に「愛はある」と伝える方法なのかもしれません。

sponsored link
error: Content is protected !!