ある人に関して、ずっとカードを引き続けて辛くないのか?
と聞かれることが、時折あります。
確かにイマジネーションが強い時や追体験するような瞬間は、
良い感じは、しません。
そのような希望の無さをのように乗り越えているのか、
聞かれることも、たまに起こります。
そのような問いかけに応える時には、基本的に明るい側面だけを
説明するようにしています。
それ以外の当たり前の側面も五つ、六つ、その明るい側面と
繋がって存在し、成長していくのですが、明るい部分以外を
説明すると、ほとんどの人は、混乱します。
このような問いかけをしてくるようなタイプの人は、100%
混乱します。
だから明るい側面しか説明しないことにしています。
このような姿勢(七つくらいの側面がある)でカードを引いて
いますが、それでも捉われる不安があります。
もしかしたら、生きているのではないのか?と言うイマジネーションです。
名前を奪われたまま、この世にいない人間として、誰いも探して
もらえないところで生きているのではないか?というイマジネーションを
感じると非常に恐ろしくなります。
完全な肉体人間として精神(名前)を奪われたまま玩具にされているのです。
そして、ある教えの中で飼われているのです。
精神を失い、ただの生き物なった状態で、ただ生かされている状態です。
自分自身のイメージを失った人間は、もはや人として行動することは、
出来なくなります。
刺激に対して、単純な反応を繰り返すだけです。
それは、亡くなってしまうよりも恐ろしいことです。
無理矢理、肉体と魂を切り離されたまま生かされ続けている状態です。
ある時、何故、このようなイマジネーションを得るのか、考えました。
身体の一部がレアなままで保存、展示されているのかも知れません。
恐ろしく大雑把な言い方をすれば、成仏出来ない状態にされているのです。
そして限られた人だけに案内されているのかも知れません。
これは、シシャに対するノロイです。
しかし、そうであれば、現実的には、亡くなっていることになります。
では、何故、「生きている」と流布したい存在が蠢くのか?
疑心暗鬼な状態を生じさせることこそが「ノロイ」の本質部分だからです。
ある一定の人たちを疑心暗鬼な状態に陥れたいのだと読みました。
シシャは、供養すれども、ノロイをかけて良いわけがありません。
多く人の愛が、そのような念を粉砕することを信じています。