家賃は半分

同棲

とりあえず同居してみたの続きです。

朝倉澪は、一度、実家へ帰った。

別に、傷心だったわけではない。

井森との生活を忘れるためでもない。

次の家が決まるまで、少しいればいい。

仕事の予定を整理して、そのあと考える。

その程度だった。

実家には、澪が使っていた部屋がまだ残っていた。

もっとも、半分は物置になっていた。

昔の本。

着なくなった服。

父親が勝手に置いた段ボール。

母親が捨てるか迷っている布団。

「私の部屋なんだけど」

「もう住んでないでしょう」

母はそう言った。

正しい。

正しいので腹が立つ。

澪は段ボールを廊下へ出し、布団を押し入れへ突っ込み、とりあえず寝られる場所を作った。

昔からそうだった。

場所がなければ作る。

合わなければ変える。

嫌なら出る。

それで困ったことは、あまりない。

父親は、帰ってきた娘を特別歓迎するでもなく、

「いつまでいるんだ」

と聞いた。

「分かんない」

「仕事は」

「してる」

「東京戻るのか」

「たぶん」

「たぶんか」

「まだ決めてない」

父は新聞をめくった。

「お前は昔からそうだな」

「何が」

「先のことを決めない」

澪は冷蔵庫を開けた。

「決める必要が出たら決めるよ」

「そうか」

「そう」

牛乳を出す。

普通の牛乳だった。

低脂肪ではない。

そのことに気づいて、なぜか井森を思い出した。

腹が立った。

冷蔵庫を閉めた。

実家での生活は、思ったより早く昔に戻った。

母親に買い物を頼まれる。

父親がテレビの音を大きくする。

風呂の順番でもめる。

近所の人に、

「澪ちゃん、帰ってきたの?」

と言われる。

二十九歳になっても、ここでは澪ちゃんだった。

悪くはなかった。

ただ、妙だった。

東京にいたときは、実家へ戻れば一度全部が止まるような気がしていた。

そんなことはなかった。

仕事のメールは来る。

電話も来る。

締切も来る。

母親はゴミを出せと言う。

父親は醤油を取れと言う。

人生というものは、場所を変えたくらいでは止まらないらしい。

それも、悪くなかった。

澪は次の仕事を探した。

地方の案件もあった。

東京の案件もあった。

短期で海外へ行く話も一つあった。

以前なら、面白そうなものから決めていた。

ところが今回は、返事が少し遅くなった。

なぜなのか、自分でもよく分からない。

行きたくないわけではない。

どれも面白そうだった。

ただ、

面白そう。

じゃあ行こう。

というところに、以前にはなかった一拍が入る。

その一拍が、澪には少し鬱陶しかった。

井森のせいだ。

とりあえず、そういうことにしていた。

父親が倒れたのは、実家へ戻って三週間ほど経ったころだった。

朝だった。

母親の声がした。

澪が廊下へ出ると、父が床に座り込んでいた。

最初は本人が、

「大丈夫だ」

と言った。

こういうときに大丈夫と言う人間は、だいたい大丈夫ではない。

救急車を呼んだ。

入院になった。

幸い、命に別状はなかった。

ただし、しばらく病院からは出られない。

母は病院と家を往復することになった。

澪も仕事を減らした。

すると当然、収入も減った。

実家にいれば家賃はかからない。

それは助かった。

だが、いつまでここにいるのか。

仕事をどうするのか。

東京へ戻るのか。

戻るなら、どこへ住むのか。

父のことはどうするのか。

考えることが増えた。

澪はこういうとき、いつもなら決断が早かった。

条件を並べる。

一番面白そうなものを選ぶ。

違ったら変える。

それでいい。

なのに今回は、なかなか決められなかった。

何か一つを選べば、別の何かを置いていくことになる。

そんな当たり前のことを、今さら意識するようになった。

それが少し面倒だった。

ある日の午後。

病院から戻り、母親と遅い昼食を食べた。

洗濯物を取り込んだ。

仕事のメールを二通返した。

三通目を開いたところで、スマートフォンが鳴った。

画面を見る。

井森。

澪はしばらく見ていた。

出るかどうか迷ったわけではない。

ただ、名前を見た瞬間に、自分が何を思ったのか確認しようとした。

分からなかった。

だから出た。

「もしもし」

『仕事を手伝わないか』

挨拶のあと、三分もしないうちにそれだった。

「何の」

『霊を帰す』

澪は黙った。

「……それ、仕事って言うの?」

『俺も最近知った』

「誰から依頼来るの」

『分からん』

「分からん仕事に誘ってるの?」

『依頼だけ来る』

「どこから」

『紹介』

「誰の?」

『知らない』

「怖っ」

『俺もそう思う』

ここ一週間で五件。

古い旅館。

取り壊し予定の家。

閉鎖された診療所。

山道。

なぜか一件だけライブハウス。

どれも井森が見れば、確かに「いる」。

しかも、ただ祓えばいいものではなかった。

話を聞き、残っている理由を探し、帰る場所を見つける必要がある。

「それで?」

『一人じゃ無理だ』

澪は少し驚いた。

以前の井森なら、まず言わなかった言葉だった。

「何が」

『俺には見える。でも、生きてる人間から話を聞くのが下手だ』

「知ってる」

『お前はうまい』

「それ褒めてる?」

『褒めてる』

珍しい。

「それだけ?」

電話の向こうで少し間があった。

『あと、俺が間違ってたら止める』

澪は黙った。

『お前、言うだろ』

「言うね」

『嫌われても』

その言葉を、澪はどこかで聞いた気がした。

ずいぶん前。

あの妙な入居審査だった。

――相手が明らかに間違っていると思った場合は?

言います。

――嫌われても?

嫌われることと、間違ってることは別でしょう。

澪は目を閉じた。

あのときは、知らない誰かがそれを測っていた。

井森を動かすために。

自分が使える人間かどうかを。

今は井森本人が言っている。

澪は少しだけ笑った。

「それ、助手?」

『知らん』

「求人内容として雑すぎない?」

『じゃあ何ならいいんだ』

「それを雇う側が考えるんでしょう」

『雇うのか、俺が』

「知らないよ」

『お前が言ったんだろ』

以前と変わらない。

少しだけ安心した。

そのことには気づかないふりをした。

「報酬は?」

井森が金額を言った。

澪は眉を上げた。

「結構いいじゃん」

『危険手当込みらしい』

「急に嫌になってきた」

『俺もだ』

笑った。

普通に笑えた。

それから井森が聞いた。

『親父さん、どうなんだ』

澪は少し黙った。

「知ってたの?」

『この前言っただろ』

そうだった。

一度だけ、短いメッセージを送った。

「しばらく入院」

『大丈夫なのか』

「命には別状ない。母親一人だと大変だから、今はこっちにいる」

『そうか』

井森は、それ以上言わなかった。

戻ってこいとも。

仕事なんだから来いとも。

何も言わない。

以前なら、その沈黙に腹を立てたかもしれない。

今は少し違った。

澪は自分から聞いた。

「いつから?」

『何が』

「仕事」

『いつでもいい』

「依頼、溜まってるんでしょ」

『溜まってる』

「じゃあ急ぎじゃん」

『でも、お前が決めることだろ』

澪は黙った。

そういうことを言えるようになったのか。

「……考えとく」

『ああ』

電話を切った。

澪はしばらくスマートフォンを持ったまま座っていた。

母親が台所から顔を出した。

「井森さん?」

澪は顔を上げた。

「なんで知ってるの」

「顔」

「どんな顔してた?」

「知らない」

「じゃあ言わないでよ」

母は冷蔵庫を開けた。

「東京戻るの?」

「まだ決めてない」

「そう」

それだけだった。

澪は少し拍子抜けした。

「止めないの?」

「何を」

「戻るの」

「お父さん死ぬわけじゃないし」

「縁起でもない言い方しないでよ」

「退院したら面倒になるわよ」

「今でも面倒だけど」

「じゃあ、ずっとここにいる?」

澪は答えなかった。

母親は牛乳を取り出した。

「私、お父さんの面倒見るために結婚したわけじゃないのよ」

「急に何」

「でも倒れたら見るでしょう」

「まあ」

「仕事辞めるつもりもないし」

「うん」

「あなたも同じでいいんじゃない」

澪は母を見る。

「何が」

「知らない。自分で考えて」

母はそれ以上説明しなかった。

澪は少し笑った。

最近、周囲の人間が妙に自分で決めろと言う。

前から自分で決めてきたつもりなのだが。

すぐには返事をしなかった。

父親の退院後について医師と話した。

母親とも話した。

仕事先にも連絡した。

東京へ戻っても、しばらくは何度か実家へ来ることになる。

面倒だった。

交通費もかかる。

予定も組みにくい。

それでも、不可能ではなかった。

以前の澪なら、

できる。

なら、やる。

で終わったかもしれない。

今回はもう一つ考えた。

自分は、やりたいのか。

そこを考えるのに二日かかった。

三日目。

澪から井森へ電話した。

「まだ募集してる?」

『何の』

「助手」

『助手でいいのか』

「何、もっと偉くなったの?」

『いや』

「じゃあ助手」

『分かった』

「条件」

『報酬は言っただろ』

「住むところ」

間があった。

『……前のところ、まだ空いてる』

澪も黙った。

「また、あそこ?」

『ああ』

あの家。

自分のために用意された入口。

自分が選んだと思って入った場所。

腹を立てて出た場所。

「家賃は?」

『半分』

澪は思わず聞き返した。

「半分?」

『半分』

「前は、あんなに安かったのに?」

『前がおかしかったんだよ』

「今さら?」

『今度は俺が決める』

その言葉で、澪は笑うのをやめた。

井森は続けた。

『俺が住む。お前に仕事を手伝ってほしい。一緒に住んだほうが都合がいい。だから誘った。家賃は半分。仕事の報酬も半分』

「光熱費」

『半分』

「共有の消耗品」

『半分』

「食費」

『基本別』

「調味料」

『半分』

「細かい」

『お前が聞いてるんだろ』

澪は笑った。

それから井森が言った。

『嫌なら断っていい』

澪は少し黙った。

「審査は?」

『ない』

「面接は?」

『ない』

「霊能者が相性を見るとか」

『ない』

「私があんたを怒らせる能力の測定」

『二度とやらせるか』

即答だった。

澪は目を伏せた。

「そっか」

『ああ』

「じゃあ行く」

今度は即答できた。

三日後。

澪は東京にいた。

以前と同じ玄関の前に立っていた。

キャリーケースが一つ。

段ボールは後から届く。

呼び鈴を押す。

井森が扉を開けた。

「早かったな」

「仕事だから」

「そうか」

「勘違いしないでよ」

「何を」

「別に、ここに戻りたかったとかじゃないから」

「何も言ってないだろ」

「条件を考えた結果」

「分かった」

「父親も退院の目処ついたし。こっちの仕事もあるし」

「分かったって」

「家賃半分だし」

「それは俺が払う側も半分だからな」

「分かってるよ」

井森がキャリーケースを持とうとした。

「いい」

澪は自分で持った。

井森も無理には取らなかった。

澪は玄関を越えた。

同じ家だった。

靴箱。

廊下。

リビング。

以前と何も変わっていない。

いや。

少しだけ変わっていた。

テーブルの上が妙にきれいだった。

澪は立ち止まった。

「何これ」

「何が」

「片づいてる」

「普通だろ」

「私がいないとこうなるんだ」

「そうだよ」

少し腹が立った。

少し笑った。

前回は、誰かが用意した入口から入った。

今回は、自分で戻ってきた。

その違いを、澪はわざわざ言葉にはしなかった。

井森も言わなかった。

「部屋、そのままだから」

「え」

澪は井森を見る。

井森はもうリビングへ歩いていた。

「なんで?」

「次の人入れてないから」

「そうじゃなくて」

井森が振り返る。

「何」

澪は少し考えた。

「……別に」

聞かないことにした。

まだ、何でも答えを出す必要はない。

部屋へ入る。

空だった。

自分で荷物を全部持って出たのだから当然だ。

それでも、妙な感じがした。

ここにクッションがあった。

ここに本を積んだ。

ここに仕事の資料を置いて井森に怒られた。

場所だけが覚えているような気がした。

澪はキャリーケースを開けた。

服を出す。

充電器を出す。

化粧品を出す。

仕事道具を出す。

一つずつ置いていく。

以前は、いつでも出られるように暮らしていた。

今も、出ようと思えば出られる。

そのことは変わらない。

ただ。

出られることと、出ることは違う。

そんな当たり前のことを、最近よく考える。

「澪」

リビングから井森が呼んだ。

「何?」

「明日、一件ある」

「もう?」

「古いアパート」

澪は部屋から顔を出した。

「何がいるの?」

「子どもらしい」

「らしい?」

「行かないと分からない」

澪は井森を見た。

以前なら、

分からない。

ということを、この男は認めなかった気がする。

分かっていても関わらないふりをした。

知らないふりをした。

今は違う。

分からないから調べる。

その程度の変化だった。

でも、澪は知っていた。

人間が変わるというのは、案外そういう小さなところに出る。

「危ない?」

「分からない」

「またそれ?」

「分からないものを分かるって言うよりいいだろ」

「成長したじゃん」

「誰目線だよ」

「助手」

井森が少し考えた。

「助手なのか?」

「違うの?」

「……相棒?」

澪は黙った。

井森も黙った。

「急に恥ずかしいから助手でいい」

「お前が言わせたんだろ」

澪は笑った。

翌朝。

澪が玄関へ行くと、井森はもう靴を履いていた。

「どこ?」

「団地」

「遠い?」

「電車で四十分」

「報酬は?」

「半分」

「交通費」

「経費」

「よし」

「そこ大事なのか」

「仕事だからね」

二人で外へ出た。

澪が鍵を閉める。

一瞬だけ、自分の手元を見た。

また、この家の鍵を持っている。

前と同じ鍵だった。

でも、同じではない。

誰かに渡された役割ではない。

井森に頼まれた。

自分で条件を聞いた。

考えた。

そして引き受けた。

それだけだ。

それで十分だった。

駅へ向かって歩き出す。

途中で井森のスマートフォンが鳴った。

井森が画面を見る。

嫌そうな顔をした。

「何?」

「依頼」

「また?」

「来週」

「人気じゃん」

「嬉しくない」

「儲かるじゃん」

「そういう仕事じゃない」

「家賃半分なんだから稼いで」

「お前も半分だろ」

「だから一緒に稼ぐんでしょ」

井森が何か言い返そうとして、やめた。

澪は少し笑った。

二人は駅へ向かった。

これから死んだ子どもを帰しに行く。

その次には、古い旅館が待っている。

その次には橋。

その次には、誰も住んでいない家。

井森はまだ知らない。

なぜ急にこんなに仕事が来るようになったのか。

澪も知らない。

そのころ。

都内の録音スタジオで、富子は三度目のテイクを終えた。

「今の、どう?」

ブースの向こうでディレクターが親指を立てた。

富子はヘッドフォンを外した。

まだ若い。

二十代の前半。

見た目だけなら、井森よりいくつも年下だった。

休憩に入る。

廊下へ出ると、マネージャーが待っていた。

「富子さん」

「なに?」

「例の件、今週分です」

紙を渡される。

富子は目を通した。

古いアパート。

廃業した旅館。

橋。

個人宅。

寺の裏手。

「五件?」

「七件です。裏にもあります」

富子は紙を裏返した。

二件あった。

「多くない?」

マネージャーは富子を見た。

「増やせって言ったの富子さんですよ」

「そうだっけ」

「『暇にさせると逃げるから、どんどん入れて』って」

富子は少し考えた。

「ああ。言った」

マネージャーはため息をついた。

歌手のマネージャーになったはずだった。

どういうわけか最近は、事故物件、寺社、古い土地、妙な噂のある建物について問い合わせる仕事が増えている。

「それと」

「なに?」

「井森さんから、一人増えるって連絡が」

富子の手が止まった。

「一人?」

「朝倉澪さん」

「誰?」

「知りませんよ」

「本人が選んだの?」

「朝倉さんをですか?」

「そう」

「井森さん本人から連絡が来たので、そうじゃないですか」

富子は少し考えた。

それから紙を畳んだ。

「ならいいわ」

「いいんですか?」

「本人が選んだなら」

「何の話です?」

「こっちの話」

富子は七件の紙を返した。

「全部回して」

「全部?」

「全部」

「多いって今言ったじゃないですか」

「多いわね」

「じゃあ減らします?」

「減らさない」

「なんでですか」

「やらないと上手くならないでしょう」

マネージャーは黙った。

富子も黙った。

「富子さん」

「なに?」

「この井森さんって、何なんですか」

富子は考えた。

千三百年ほど前。

社が一つあった。

今はもうない。

当然だった。

木でできた建物など、とっくに腐っている。

場所を探して掘り返せばいいという話でもない。

今の時代には土地の所有者がいる。

勝手に山を掘れば法律にも引っかかる。

そもそも、建物だけ作り直したところで意味はなかった。

必要なのは、その場所が担っていたものを、もう一度人間の側へ返すことだった。

井森家には、それが断片になって残っている。

祖父にも。

父にも。

その前にも。

そして今、ようやく力のある子孫が一人いる。

少々、いや、かなり教育が足りないが。

説明すると長かった。

「昔の知り合いの子孫」

「どのくらい昔です?」

富子は少し考えた。

「この前」

「この前?」

「かなり前」

「どっちですか」

「人によるわね」

マネージャーが富子を見る。

富子も見返した。

「富子さん、二十代ですよね」

「そうよ」

「ですよね」

「何?」

「いえ」

富子は時計を見た。

そろそろ次のテイクだった。

「じゃ、次いこう」

「はい」

歩きかけて、富子は止まった。

「明日のアパート」

「はい」

「何時?」

マネージャーが予定を確認した。

「十一時です」

「十一時……」

富子は自分の予定を思い出した。

午前はここ。

午後から別の収録。

間に少しだけ空く。

「見に行くんですか?」

「行かないわよ」

即答した。

「井森君の仕事でしょう」

「そうですか」

「いつまでも私が行ってたら、一人前にならないもの」

「なるほど」

富子は二歩歩いた。

止まった。

「場所だけ送って」

マネージャーが顔を上げた。

「行かないんですよね?」

「行かない」

「じゃあ何で」

「念のため」

「何の念ですか」

「いろいろあるのよ」

富子はスタジオへ戻った。

赤いランプが点く。

ヘッドフォンをつける。

音が流れる。

マイクの前で息を吸う。

千三百年前に壊したものを、今さら元通りにすることはできない。

あのころの富子には、事情があった。

記憶がなかった。

自分が何者なのかも分からなかった。

長い生涯の中で、あの時期だけはまともな判断能力があったとは言い難い。

だからといって。

壊したものは壊した。

それは変わらない。

人間としていくつもの国を生きた。

いくつもの時代を生きた。

壊す側にもなった。

壊される側にもなった。

その繰り返しの中で、ようやく覚えたことがある。

事情と責任は、同じものではない。

事情があれば、責任が消えるわけではない。

謝れば元に戻るわけでもない。

できることが残っているなら、やればいい。

だから富子は、やっていた。

井森家の祖父や父、その前の人間たちが守ってきたものを、今度は途切れさせないように。

井森を一人前にする。

それが今の自分にできる、一番現実的な後始末だった。

そのために必要なのは、神の力ではなかった。

実地経験だった。

だから仕事を入れる。

マネージャーに頼んで。

たくさん。

富子としては、きわめて真面目だった。

ブースの向こうから合図が来た。

富子はマイクへ向き直った。

歌い始める。

そのころ井森と朝倉澪は、最初の依頼先へ向かう電車に乗っていた。

二人とも知らない。

これからしばらく、自分たちが妙に忙しくなる理由を。

富子だけが知っていた。

なにしろ。

仕事を入れているのは、富子だった。

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