朝倉澪は、家を選ぶのがうまかった。
正確には、家に執着しないのがうまかった。
駅から遠くても、近所に面白い商店街があればいい。
築年数が古くても、窓から空が見えればいい。
半年後に仕事の状況が変われば、そのとき考えればいい。
二十九歳。
独立して仕事をするようになってから、住む場所を変えることにはすっかり慣れていた。
知らない土地へ行くことも、新しい仕事を始めることも、新しい人間関係の中へ一人で入っていくことも、澪にはそれほど怖くない。
むしろ、少し楽しい。
次に何が起こるのか分からない状態には、独特の軽さがある。
だから、その物件を見つけたときも、最初は深く考えなかった。
立地がいい。
広い。
設備も悪くない。
そして、あり得ないほど家賃が安い。
条件は一つ。
ルームシェア。
「怪しいな」
画面を見ながら、澪は呟いた。
怪しい。
どう考えても怪しい。
同居人の欄を見る。
男性。一人暮らし。三十歳。
女性可。
澪の指が止まった。
さらに、
――入居前に同居人との顔合わせがあります。
と書いてある。
「へえ」
少しだけ興味が出た。
二十九にもなれば、男と二人で暮らすというだけで妙な期待をするほど初心ではない。
むしろ逆だった。
どんな男なら、見ず知らずの女と暮らしてもいいと思うのだろう。
しかも、この条件で、この家賃。
まともなら掘り出し物。
変な男なら断ればいい。
顔合わせがあるなら、そこで分かる。
たぶん。
「まあ、見に行くだけなら」
いつものことだった。
面白そうなら、一度行ってみる。
違ったらやめればいい。
澪の人生は、だいたいそれでうまくいってきた。
応募フォームを送信した。
それが、自分のために用意された入口だとは知らなかった。
入居審査は妙だった。
収入や職業について聞かれたあと、
「同居人と意見が対立したらどうしますか」
と聞かれた。
「話します」
「相手が話したがらなかったら?」
「それなら放っておきます」
「いつまで?」
澪は少し考えた。
「私が面倒になるまで」
面接官の一人が何かを書き込んだ。
さらに聞かれた。
「相手が明らかに間違っていると思った場合は?」
「言います」
「嫌われても?」
「嫌われることと、間違ってることは別でしょう」
また何か書き込まれた。
何の審査なのだろう。
普通なら、ここで気味が悪くなって帰るところなのかもしれない。
澪は逆だった。
途中から面白くなってきたので、最後まで付き合った。
数日後、合格の連絡が来た。
そして井森と会った。
第一印象は、悪くなかった。
愛想がいいわけではない。
かといって感じが悪いわけでもない。
少し神経質そうで、妙にこちらを観察している男。
顔は、まあ、嫌いではない。
「朝倉澪です」
「井森です」
それだけ。
運命的なものなど何もなかった。
二十九にもなれば、初対面の男の顔が少し好みだったくらいで、その先に何かを想像したりはしない。
ただ。
この男なら、まあ。
同じ家に住んでもいいか。
そのくらいだった。
共同生活は、最初の一週間くらいは平和だった。
二週間目から腹が立ち始めた。
「澪」
「何?」
「これ」
井森がテーブルの上を指す。
資料、ノート、充電器、読みかけの本。
「仕事のやつ」
「見れば分かる。片づけろって言ってる」
「まだ使う」
「昨日からある」
「仕事が昨日で終わってないから」
「共有スペースだぞ」
澪は井森を見る。
「細かくない?」
「普通だ」
「井森の普通でしょ」
「共同生活の普通だ」
「共同生活の国際規格でもあるの?」
井森が黙る。
その顔を見ると、少し楽しい。
澪は笑った。
「冗談だって」
「面白くない」
「そう?」
入居前に少しだけあった、男と暮らすことへの好奇心は、だいたい二週間で消えた。
細かい。
口うるさい。
融通が利かない。
顔が嫌いではないことと、一緒に暮らして腹が立たないことは、まったく別の問題らしい。
その頃の澪にとって、井森は変わった同居人にすぎなかった。
ただ、一つだけ不思議だった。
逃げない男だった。
澪の生活は一定しない。
急に仕事が入る。
地方へ行く。
予定が延びる。
帰宅時刻も変わる。
誰かと知り合う。
別の仕事が始まる。
澪にとっては普通のことだった。
ところが井森は、ずっとそこにいる。
三日地方へ行って帰ってくると、井森がいる。
一週間忙しくして帰ってきても、井森がいる。
喧嘩をして翌朝起きても、いる。
それが妙だった。
ある夜、夕食を食べていると、井森が唐突に聞いた。
「そもそも、なんで応募したんだ」
澪は箸を止めた。
「何、急に」
「いや。普通、応募しないだろ」
「失礼だね」
「男一人が住んでる家だぞ」
「自覚あったんだ」
「あるよ」
澪は少し考えた。
「安かったから」
「それだけか?」
「……女性可だったから」
井森が顔を上げた。
「は?」
「顔合わせもあるって書いてあったし」
「それで?」
「ちょっと面白そうだった」
「何が」
澪は何でもないことのように言った。
「男と住むの」
井森が黙った。
澪はその顔を見る。
「何その顔」
「いや」
「変な想像した?」
「してない」
「してるじゃん」
「してない」
「じゃあ何」
「お前、もう少し警戒心持ったほうがいいぞ」
澪は笑った。
「持ってたよ」
「どこが」
「だから顔合わせしたじゃん」
「顔見て何が分かるんだよ」
「結構分かるよ」
「例えば?」
澪は井森を見る。
少し考えるふりをした。
「面倒くさそう」
「帰れ」
「もう住んでる」
井森が嫌そうな顔をした。
澪は笑った。
こういうところは、少し面白い。
それ以上の意味はない。
少なくとも、そのときはそう思っていた。
ある晩、二人はひどく喧嘩した。
原因は、今となってはどうでもいいことだった。
井森が何かを隠している。
澪にはそう見えた。
「何かあるなら言えば?」
「何もない」
「じゃあ、その顔やめて」
「どんな顔だよ」
「私は何も知りませんって顔」
「実際、お前には関係ない」
澪の中で何かが引っかかった。
「じゃあ最初から不機嫌になるな」
「なってない」
「なってる」
「うるさいな!」
井森が怒鳴った。
澪も言い返そうとした。
しかし井森の様子がおかしい。
顔から血の気が引いている。
視線が澪を通り越し、どこか遠くを見ていた。
「……井森?」
返事がない。
「ちょっと」
ようやく井森が澪を見る。
「何でもない」
澪は腹が立った。
「それ、便利な言葉だよね」
井森は答えなかった。
その日からだった。
井森の周囲で、おかしなことが起こり始めた。
いや。
正確には、それ以前から起きていたのだろう。
澪が気づいていなかっただけだ。
井森には、普通の人間には見えないものが見えていた。
死者。
記憶。
場所に残った何か。
澪は最初、信じなかった。
当然だった。
だが、信じるしかなくなるまで、それほど時間はかからなかった。
そして奇妙なことに、井森の力は少しずつ強くなった。
原因を特定するのには時間がかかった。
「もしかして」
ある日、澪は言った。
「私と喧嘩すると強くなってない?」
「そんな馬鹿な話あるか」
「だって、この前もそうだったじゃん」
「偶然だ」
「じゃあ試す?」
「何を」
「喧嘩」
「やめろ」
「ほら、もうちょっと怒ってる」
「お前な……」
冗談だった。
その頃は、まだ。
やがて二人は、千三百年前の神社へ辿り着いた。
正確には、神社があった場所へ。
山中。
何もない。
木々と土と岩。
そこにかつて社殿があったなど、澪には想像できなかった。
井森だけが立ち尽くしていた。
「ここだ」
「分かるの?」
「ああ」
その声を聞いて、澪は妙な気持ちになった。
最初に会った頃の井森なら、ここまで来なかっただろう。
何かが見えても無視した。
何かを感じても関わろうとしなかった。
面倒なものから距離を取ることにかけては、澪も人のことを言えない。
しかし井森は変わった。
嫌なら嫌と言う。
怒る。
追う。
調べる。
危険でも踏み込む。
自分の意思を出すようになった。
澪はそれを近くで見てきた。
少しくらい自分の影響もあるのではないか。
そう思うと、悪い気はしなかった。
まさか。
そのために自分がここへ連れてこられたとは、思わなかった。
真実を聞いたとき、最初は意味が分からなかった。
あの物件。
破格の家賃。
ルームシェアという条件。
女性可。
事前の顔合わせ。
そして、奇妙な面接。
全部、井森のためだった。
井森の先祖たちは、千三百年前に失われた神社に執着していた。
そして、その役割を継ぐことのできる霊能力を持った子孫が井森だった。
しかし井森は動かなかった。
だから、動かす人間が必要になった。
候補者が集められた。
霊能者や占い師が検討した。
性格も相性も調べられた。
そして選ばれた。
朝倉澪。
澪はしばらく何も言わなかった。
「……つまり」
自分でも驚くほど冷静な声が出た。
「私、審査されたんだ」
誰も否定しなかった。
「井森を怒らせるのに向いてるかどうか?」
違う、と誰かが言った。
井森の能力を引き出すためだ、と。
「同じじゃん」
澪は笑った。
笑えてしまった。
面白かったからではない。
怒りすぎると、人間は案外笑うらしい。
ふと、あの広告を思い出した。
女性可。
事前に顔合わせあり。
あれを見て、自分は思ったのだ。
顔を見てから決めればいい。
変な男なら断ればいい。
自分が選べるのだと。
「それで?」
澪は聞いた。
「私は合格したんだ」
沈黙が答えだった。
隣で井森が言った。
「澪。俺は知らなかった」
「うん」
それは分かっていた。
井森を責める気にはならなかった。
だから余計に腹が立った。
もっと簡単ならよかった。
井森も全部知っていて、自分を騙していたのなら、井森を嫌いになれば済んだ。
でも違う。
井森も使われていた。
澪も使われていた。
二人が知らないところで、
この二人を同じ家に入れれば、こうなる。
と判断した人間たちがいた。
「私が井森と喧嘩したのも?」
誰も答えない。
「私があいつに腹立てたのも?」
「それは――」
「私が決めたこと?」
答えはなかった。
その瞬間、広告を見た夜の自分が妙に鮮明に蘇った。
面白そうなら、一度行ってみる。
違ったらやめればいい。
自分でそう決めたつもりだった。
その最初の一歩から、誰かの計算の中だったのだとしたら。
急に気持ちが悪くなった。
家に戻って、自分の部屋を見た。
いつの間にか、物が増えていた。
澪にしては珍しいことだった。
仕事先でもらった紙袋。
読みかけの本。
マグカップ。
井森が「邪魔だ」と言った資料。
買い足したクッション。
キッチンには澪が選んだ調味料まである。
こんなに長く住むつもりだっただろうか。
分からない。
そもそも、入居したとき何かを決めただろうか。
いつものように、
とりあえず。
だった。
とりあえず住んでみる。
嫌なら出ればいい。
変な男なら断ればいい。
そう思って始めた。
それなのに。
澪は部屋の真ん中に立った。
ここにいる間、何度井森と喧嘩しただろう。
何度笑っただろう。
何度、一人で食べるつもりだった夕食を二人で食べただろう。
全部、仕組まれていたのだろうか。
そう考えると腹が立つ。
しかし、
全部偶然だった、
と言われても腹が立つ気がした。
自分でも意味が分からなかった。
澪は荷物をまとめ始めた。
こういうことは得意だった。
必要なもの。
捨てるもの。
持っていくもの。
後で送ればいいもの。
分類して、箱に入れる。
移動するときに困らない程度のものしか持たない。
ずっとそうしてきた。
だから早い。
井森が部屋の入口に立っていた。
「出るのか」
「うん」
「いつ」
「早いほうがいいかな」
「そうか」
澪は少し腹が立った。
何に腹が立ったのか、自分でも分からない。
止められても困る。
止められなければ腹が立つ。
理不尽だと思う。
だから言わない。
井森も何も言わない。
澪は箱にガムテープを貼った。
「私の役目、終わったんでしょ」
井森が顔を上げた。
「そんな言い方するな」
「だってそうじゃん」
「俺はそう思ってない」
澪の手が止まる。
その続きを、一瞬待った。
しかし井森は言わなかった。
澪も聞かなかった。
「そっか」
それだけ言った。
最後の日。
驚くほど普通の朝だった。
澪はコーヒーを淹れた。
井森の分も、癖で淹れてしまった。
「飲む?」
「ああ」
二人で飲んだ。
何を話したのか、後になったら覚えていないような会話だった。
ゴミの日。
冷蔵庫に残っているもの。
鍵をどうするか。
そんな話。
玄関に荷物を置く。
靴を履く。
澪は立ち上がった。
ふと、初めて井森に会った日のことを思い出した。
顔は、まあ、嫌いではない。
この男なら、同じ家に住んでもいいか。
あのときは、その程度だった。
今はどうなのだろう。
考えかけて、やめた。
「じゃあね、井森」
「ああ」
「ちゃんと食べなよ」
「お前に言われたくない」
「確かに」
少し笑った。
それで終わりだった。
澪は外へ出た。
扉が閉まった。
駅へ向かって歩く。
キャリーケースの車輪が、舗装の継ぎ目を越えるたびに小さく跳ねた。
澪はこの音を知っている。
何度も聞いてきた音だった。
引っ越すとき。
旅へ出るとき。
仕事で知らない土地へ向かうとき。
この音を聞くと、いつも少し気分が軽くなった。
次へ行ける。
新しい場所へ。
まだ何も決まっていない場所へ。
それが好きだった。
今日だって同じはずだった。
なのに。
駅が近づくにつれて、澪は何度か後ろを振り返りそうになった。
振り返らなかった。
理由が分からないからだ。
井森と一緒にいたいのか。
ただ腹が立っているだけなのか。
自分が選ばれたことが許せないのか。
井森が何も言わなかったことが気になるのか。
あの家に愛着があるのか。
それとも、長く暮らした場所を離れるときにいつも感じる、ただの感傷なのか。
分からない。
恋愛なら、もう少し分かりやすかった気がする。
二十九年生きてきて、誰かを好きになったことがないわけではない。
会いたくなる。
連絡を待つ。
触れたいと思う。
相手が自分をどう思っているのか気になる。
そういうものなら知っている。
けれど井森は、少し違った。
会いたい、より先に。
帰ればいる。
連絡を待つ、より先に。
冷蔵庫の牛乳が切れている。
触れたい、より先に。
テーブルを片づけろと言われる。
いつの間にか、恋愛の順番を全部飛ばして、生活の中にいた。
だから、これが何なのか分からない。
分からないなら、今決めなくていい。
そう思った。
それは澪がずっと使ってきた方法だった。
来年のことは来年考える。
嫌になったらやめる。
行きたくなったら行く。
未来が変わったら、そのとき考えればいい。
それでいい。
そのはずだった。
電車に乗る。
ドアが閉まる。
景色が動き出す。
澪は窓の外を見る。
胸の奥に、今までとは違う違和感があった。
井森は変わった。
最初は何が起きても関わろうとしなかった男が、自分から何かを追うようになった。
嫌だと言うようになった。
怒るようになった。
選ぼうとするようになった。
自分がそうさせたのだろうか。
分からない。
でも。
澪はふと思う。
じゃあ、私は?
私は何か変わったのだろうか。
井森を覚醒させるためのルームシェア。
そういう計画だったらしい。
だったら自分は、何だったのだろう。
触媒。
きっかけ。
選ばれた同居人。
冗談じゃない。
私は誰かの人生を進めるためのイベントじゃない。
そう思う。
その怒りは本物だった。
でも同時に、もっと嫌な疑問が浮かぶ。
井森だけが変わったのだろうか。
澪は窓に映る自分を見る。
今までなら、新しい場所へ向かえば、それだけで前を向けた。
終わったものは後ろへ流れていく。
それでよかった。
なのに今日は、
次にどこへ行くかより、
どこから出てきたのか
のほうが気になっている。
そんな自分が、少し気持ち悪かった。
スマートフォンが震えた。
井森かと思った。
違った。
仕事の連絡だった。
来月、地方で面白い案件があるという。
澪は読む。
普段なら、その場で返事をする。
面白そう。
行きます。
それで決まる。
指が返信欄の上で止まった。
そして、なぜか笑った。
井森のせいだ。
そういうことにしておこう。
澪はスマートフォンを閉じた。
今決める必要はない。
ただし、それは今までの、
決めなくて済むから決めない
とは、ほんの少しだけ違う気がした。
まだ言葉にはできない。
電車が次の駅へ入る。
人が降りる。
人が乗る。
ドアが閉まる。
また動き出す。
澪は昔から、こういう瞬間が好きだった。
どこへでも行ける。
次の駅で降りてもいい。
終点まで行ってもいい。
途中で予定を変えてもいい。
世界にはいつも出口がある。
それが自由だと思ってきた。
たぶん今も、そう思っている。
ただ。
一つだけ、以前にはなかった問いが残った。
出ていけるのに、出ていかないことを選ぶのも、自由なのだろうか。
答えは出なかった。
だから澪は、その問いを持ったまま電車に乗っていた。
急いで答えを出す必要はない。
井森との関係が何だったのかも。
また会いたいのかも。
どこに住みたいのかも。
まだ分からない。
けれど、以前の澪なら考えもしなかった問いだった。
窓の向こうを、東京の街が流れていく。
知らない場所へ行くときと同じように、少しだけ胸が騒いだ。
澪はそれを嫌だとは思わなかった。
次に何が起きるのか、まだ決まっていない。
それは昔から、彼女が一番好きな状態だった。
ただ今度は、その「まだ決まっていない未来」の中に、
どこかへ行く可能性だけではなく、どこかに留まる可能性もある。
それだけが、以前とは違っていた。
朝倉澪は、そのことにまだ名前をつけなかった。
電車は走り続けた。
そして彼女もまた、まだ途中にいた。
