――自己理解、教育、知識が「選べる人生」を広げる
私たちは、何にも影響されずに生きているわけではありません。
家庭環境。
幼少期の経験。
遺伝的な傾向。
性格。
教育。
文化。
社会。
過去の成功や失敗。
こうしたものが複雑に重なって、現在の「自分」が作られています。
その意味では、人間は完全に自由な存在ではありません。
しかし一方で、すべてが自動的に決まっているとも言い切れません。
何かを感じたとき、そのまま反応するしかない状態と、
「自分はいま、こう感じている」
と気づき、別の行動を考えられる状態とでは、自由度が違います。
では、その自由度は増やせるのでしょうか。
もし増やせるとしたら、私たちはどうすれば今より自由になれるのでしょうか。
今回は、そこを考えてみます。
「私は怒っている」と「私は怒りそのものだ」は違います
自由を増やすうえで、とても重要なのが「自分の反応を観察する」という能力です。
たとえば、誰かの言葉に激しく腹が立ったとします。
怒りに完全に飲み込まれているとき、
怒りと自分は、ほとんど一体になっています。
「腹が立った」
だから、
「怒鳴る」
「攻撃する」
「相手を傷つける」
となります。
怒りと行動の間に、ほとんど距離がありません。
しかし、そこで、
「私はいま、ものすごく怒っている」
と気づくことができたらどうでしょうか。
ほんのわずかな違いですが、これはかなり重要です。
「私は怒りである」のではなく、
「私の中に、いま怒りが起きている」
と見ることができるからです。
すると、怒りそのものを消せなくても、
「怒っている。でも殴る必要はない」
「いったん外に出よう」
「今日は話さないほうがいいかもしれない」
という別の可能性が生まれます。
感情と行動の間に、少しだけ空間ができます。
自由は、この小さな空間から始まるのかもしれません。
自分を観察できるという、人間の不思議な能力
人間には、自分自身を対象として見る能力があります。
怖がっている自分を見て、
「なぜ私は、こんなに怖いのでしょう」
と考えることができます。
嫉妬している自分を見て、
「なぜ私は、こんなに不安になるのでしょう」
と考えることもできます。
失敗を恐れて動けない自分を見て、
「本当に失敗が怖いのでしょうか。それとも、失敗して人から否定されることが怖いのでしょうか」
と問い直すこともできます。
つまり人間は、
自分を動かしているものについて考えることができます。
これは自由を考えるうえで、とても重要です。
自分を動かしている原因そのものを消すことはできなくても、
その原因と自分との関係を変えることはできるかもしれないからです。
トラウマは「自由を奪う」というより、選択肢を狭くする
過去の経験は、ときに現在の選択肢を大きく狭めます。
たとえば、幼いころに強い見捨てられ体験をした人がいるとします。
大人になり、恋人からしばらく返信が来ません。
頭では、
「仕事が忙しいだけかもしれない」
と分かっています。
しかし、身体や感情は、
「捨てられる」
という危機として反応するかもしれません。
すると、不安が急激に大きくなります。
何度もメッセージを送る。
相手を問い詰める。
愛情を試す。
束縛する。
あるいは、捨てられる前に自分から関係を壊してしまう。
本人はその瞬間、
「自分でそうした」
と感じるでしょう。
実際、行動したのは本人です。
しかし、現在の出来事だけに反応しているとは限りません。
目の前の恋人に反応している部分と、
過去の経験に反応している部分が混ざっている可能性があります。
このとき、その人には「何もしない」「待つ」「確認する」「相談する」といった選択肢が見えにくくなっています。
つまりトラウマは、
人間から意思そのものを消してしまうというより、
選べる範囲を狭くしてしまう
と考えることができます。
自分のパターンを知ると、選択肢が一つ増えます
ここで自己理解が重要になります。
たとえば、
「恋愛すると、なぜかいつも相手を束縛してしまう」
と思っている人がいるとします。
本人にとっては、
不安になる。
↓
相手を確認する。
↓
束縛する。
という流れが、ほとんど一続きになっています。
しかし、
「自分は見捨てられることへの不安が強くなると、相手を束縛したくなる」
と理解できたらどうでしょうか。
不安そのものは消えないかもしれません。
それでも、
「また、いつもの反応が起きているのかもしれない」
という見方が加わります。
すると、
不安になる。
↓
束縛する。
という一本道の途中に、
「これは何に対する反応なのだろう」
という分岐点が生まれます。
その分岐点が、一つの自由になります。
自分の原因を知ることは、自由を失うことではありません
自分の性格や行動が、家庭環境や過去の経験から影響を受けていると知ると、
「では、自分の意思なんてないのではないか」
と思うことがあります。
しかし、逆に考えることもできます。
知らない原因ほど、私たちを強く支配します。
なぜ自分が怒るのか分からない。
なぜ恋愛すると苦しくなるのか分からない。
なぜ人から認められないと耐えられないのか分からない。
なぜ失敗することを極端に恐れるのか分からない。
原因が見えないと、
「自分はそういう人間だから」
で終わってしまいます。
しかし、
「自分はこういう状況になると、こう反応しやすい」
と分かってくると、少なくとも反応を予測できます。
そして予測できれば、準備もできます。
原因を知ったからといって、原因から完全に逃れられるわけではありません。
それでも、
原因に操られる程度を減らすことはできます。
自己理解とは、「自分には自由がない」と確認する作業ではありません。
むしろ、
自分の自由を増やすために、自分を動かしているものを知る作業
と考えることができます。
教育は人を縛るのでしょうか
ここまで個人の内面について考えてきました。
しかし、私たちを形作っているのは家庭や過去の経験だけではありません。
教育も大きな影響を与えています。
子どものころから、私たちは周囲の大人や社会からさまざまなことを教えられます。
何が正しいのか。
何が間違っているのか。
何が恥ずかしいのか。
どんな人生が成功なのか。
どんな仕事に価値があるのか。
男とはどうあるべきか。
女とはどうあるべきか。
幸せとは何なのか。
その多くを、幼いころの私たちは自分で検討して受け入れたわけではありません。
周囲から与えられた価値観を吸収しながら成長します。
そして大人になるころには、それを、
「自分の価値観」
だと思っていることがあります。
その意味では、教育は人を条件づける働きを持っています。
しかし教育は、条件づけから自由になる道具にもなります
ところが、教育にはまったく反対の作用もあります。
歴史を学びます。
すると、
「現在の常識は、昔からずっと常識だったわけではない」
と分かります。
他の文化を学びます。
すると、
「自分の社会で当然だと思っていたことが、別の社会では当然ではない」
と分かります。
哲学を学びます。
すると、
「そもそも自分は、なぜこれを正しいと思っているのだろう」
と問い直すことができます。
科学を学べば、自分の直感が必ずしも正しくないことを知ります。
文学を読めば、自分とはまったく違う立場から世界を見る経験ができます。
つまり教育は、
人間を条件づける力であると同時に、自分が条件づけられていることに気づくための力にもなります。
ここに教育の非常に面白い二面性があります。
社会は「見えない選択肢」を作ります
自由を考えるうえでは、もう一つ重要な問題があります。
それは、
選択肢そのものが見えているか
という問題です。
たとえば、
学校を卒業する。
大学へ行く。
会社に就職する。
結婚する。
家を買う。
家庭を持つ。
それが「普通の人生」とされる社会で育ったとします。
その中で、
「私は自分の意思で会社員になることを選びました」
と言う人がいます。
もちろん、その人は自分で選んでいます。
しかし、ここで別の問いを立てることができます。
「会社員にならない」という人生を、本当に選択肢として考えたことがあったのでしょうか。
起業する。
職人になる。
複数の仕事を持つ。
海外で暮らす。
田舎で生活する。
結婚しない。
子どもを持たない。
家を所有しない。
もちろん、どれが正しいという話ではありません。
重要なのは、
存在を知らない選択肢は、選ぶことができない
ということです。
「自由に選べる」だけでは、十分ではありません
ここには、自由について見落とされやすい問題があります。
たとえば、目の前にAとBという二つの選択肢があり、
「好きなほうを選んでください」
と言われたとします。
その意味では自由です。
しかし実は、世界にはCやDやEも存在している。
ところが本人は、その存在を知りません。
すると、その人は自由に選んでいるようでいて、
見えている範囲の中だけで選んでいる
ことになります。
これは人生でも同じです。
どんな働き方があるのか。
どんな家族の形があるのか。
どんな価値観があるのか。
どんな社会があるのか。
どんな生き方があるのか。
それを知っている人と、知らない人では、
「選べる人生」の範囲そのものが違います。
知識は自由を増やします
ここまで来ると、知識の意味も少し変わって見えてきます。
知識は、単に物知りになるためのものではありません。
自分には見えていなかった選択肢を見えるようにするもの
でもあります。
Aしか知らない人。
AとBを知っている人。
A、B、C、Dを知っている人。
この三人に、まったく同じ自由があるとは言いにくいでしょう。
選択肢が増えれば、必ず幸せになるわけではありません。
むしろ迷いが増えることもあります。
それでも、
知らないために選べない状態と、知ったうえで選ばない状態は違います。
ここに、知識と自由の重要な関係があります。
良い教育とは「正解を教えること」だけなのでしょうか
この観点から教育を見ると、教育の役割についても違った考え方ができます。
教育というと、
「正しいことを教える」
というイメージがあります。
もちろん、知識やルールを教えることは必要です。
しかし、それだけではありません。
世界には異なる考え方がある。
別の生き方がある。
自分とは違う立場の人がいる。
自分が当然だと思っている前提にも歴史がある。
そうしたことを知ることで、
自分の世界の外側を見ることができるようになります。
優れた教育とは、
「これが正解だから従いなさい」
と答えを押しつけることではなく、
本人が自分で考え、自分で選べる範囲を広げること
でもあるのではないでしょうか。
つまり教育の目的の一つは、
「何を選ぶべきか」を決めてあげることではなく、
「選べる人」を育てること
だと考えることもできます。
自由は「筋肉」のようなものかもしれません
ここまで考えてくると、自由について一つの興味深い見方ができます。
自由は、生まれたときに一定量を与えられ、その後ずっと変わらない能力ではないのかもしれません。
むしろ、
使うことで少しずつ育てられる能力
だと考えることができます。
感情を言葉にする。
自分の癖を知る。
衝動と行動の間に時間を作る。
異なる価値観を学ぶ。
他人の立場を想像する。
長期的な結果を考える。
自分の考えを疑ってみる。
知らない世界について学ぶ。
こうしたことを繰り返すと、以前なら一つしか見えなかった場面で、二つ目の選択肢が見えるようになります。
さらに経験を重ねれば、三つ目が見えるかもしれません。
自由とは、
「好きなことを好きなようにすること」
だけではありません。
以前は選べなかったものを、選べるようになること。
これもまた、自由なのだと思います。
自由になるとは、過去を消すことではありません
自由について考えると、
「過去から完全に自由にならなければならない」
と思ってしまうことがあります。
しかし、それは現実的ではありません。
育った家庭を消すことはできません。
過去の経験をなかったことにもできません。
生まれ持った気質を完全に作り替えることもできません。
社会の影響を一切受けずに生きることも不可能です。
自由になるとは、
それらを消すことではありません。
それらが自分にどう影響しているのかを知り、その影響だけで次の行動が決まらない余地を作ることです。
過去は残っています。
性格もあります。
感情も起こります。
それでも、
「だから必ずこうする」
から、
「こう感じている。でも、どうするかは少し考えられる」
へ変わっていきます。
その「少し」が、とても重要なのだと思います。
自由とは「選択肢を増やしていくこと」
第1部では、自由を、
刺激と行動の間にある選択の空間
として考えました。
今回さらに考えてみると、その空間を広げるものが見えてきます。
自己観察。
自己理解。
教育。
知識。
異なる価値観との出会い。
自分の感情や過去について考えること。
これらに共通しているのは、
「それしかない」と思っていた世界に、別の可能性を作ること
です。
怒ったら殴るしかない。
捨てられそうになったら束縛するしかない。
失敗したら人生は終わりだ。
この生き方しかない。
この価値観しかない。
そこに、
「本当にそうでしょうか」
という問いが入ります。
すると、一本道だったところに分岐が生まれます。
その分岐こそが、自由なのかもしれません。
しかし、ここから難しい問題が出てきます
ここまでの話には、一つ重要な問題が残っています。
もし人によって、
育った家庭が違い、
遺伝的な傾向が違い、
受けた教育が違い、
経験したトラウマが違い、
知っている選択肢の数も違うのであれば、
そもそも人によって「自由に選べる程度」が違う
ということになります。
ある人にとって簡単な自制が、別の人には非常に難しいかもしれません。
ある人には当たり前に見える選択肢が、別の人には存在すら見えていないかもしれません。
すると、次の問題が出てきます。
悪い行動をした人に対して、
「あなたが自由に選んだのだから、すべてあなたの責任です」
と言い切ることはできるのでしょうか。
反対に、
「環境や過去のせいなのだから、本人には責任がありません」
と言ってしまってよいのでしょうか。
おそらく、どちらも単純すぎます。
自由に程度があるのなら、
責任にも程度があるのではないか。
そして、相手の背景を理解することと、その人の行為を許すことは同じなのでしょうか。
ここから自由意志の問題は、
「自分はどこまで自由なのか」
という個人の問題を超えて、
責任、赦し、正義、そして他者を愛するとはどういうことなのか
という問題につながっていきます。