閉店後の店には、営業中とは違う音がある。
客の話し声がなくなると、冷蔵庫の低い唸りと、食洗機の水音、それから食器同士が触れる小さな音ばかりが残る。
結衣はカウンターの中で、洗い終わったグラスを一つずつ布巾で拭いていた。
直人は厨房にいる。
いつもなら、閉店後の二人にはだいたい決まった動きがある。
結衣が客席側を片づける。
直人が厨房を締める。
途中でどちらかがゴミをまとめ、余裕のあるほうがもう片方を手伝う。
特別に相談して決めた役割ではない。
何度か一緒にやっているうちに、自然にそうなった。
ところが、このところ少しだけ変だった。
直人がやたらと結衣の後ろを通る。
最初の日、結衣は気にしなかった。
棚から何か取るのだろうと思った。
二日目も、まあ店が狭いからと思った。
三日目になると、さすがに気づく。
グラスを拭いていると直人が後ろを通る。
皿を棚に戻していると、また後ろを通る。
冷蔵庫へ行くためでもなく、ゴミ箱へ行くためでもなく、どう考えてもそちらを通らなくてもいいのに通る。
何より変なのは、毎回少しだけ近い。
触れない。
絶対に触れない。
結衣の肩や背中に身体が当たらない程度のところを、すっと通っていく。
だからこそ、妙に意識する。
直人は人とぶつかるような歩き方をしない。
厨房でも客席でも、人や物との距離をかなり正確に取る人だ。
その男が、ここ数日だけ、結衣の後ろをぎりぎりのところで通る。
四日目。
結衣がカウンター下の箱から新しい布巾を出して立ち上がると、ちょうど後ろに直人がいた。
「わっ」
結衣が小さく声を出す。
直人も止まる。
直人、「ごめん」
結衣、「近い」
直人、「うん」
結衣、「うん、じゃない」
直人は一瞬だけ結衣を見る。
それから、手に持っていた保存容器を棚へ置いた。
「邪魔だった?」
「邪魔じゃないけど」
結衣はそこで言葉を切った。
直人も続きを聞かない。
また厨房へ戻っていく。
結衣はその背中を見送ってから、少し眉を寄せる。
邪魔ではない。
それが、少し腹立たしい。
五日目。
閉店後、最後の客を見送った直人が入口の鍵を閉める。
結衣は椅子をテーブルの上へ上げていた。
直人が二脚持ってくれる。
「ありがと」
「ん」
それだけ。
いつも通り。
なのに、結衣がカウンターへ戻ると、また直人が後ろにいる。
今度はさすがに振り向いた。
「直人」
結衣の語尾が少し上がる。
「ん?」
直人は、喉の奥で短く答える。
「最近、私の後ろにいること多くない?」
直人の動きが止まる。
ほんの一秒程度なのに、結衣には分かる。
図星だ。
「そう?」
直人は、床に意識を集中させる。
「そう」
結衣は、しっかりと直人を見ている。
「店狭いからじゃない?」
結衣は店内を見る。
十分広い。
少なくとも、毎回自分の背後三十センチを通らなければ仕事にならないほど狭くはない。
「直人」
「はい」
「嘘下手だね」
直人が少し笑う。
「そうかな」
「そう」
結衣はそれ以上追及しない。
直人も何も言わない。
そこで話は終わる。
でも、その日から結衣のほうも意識するようになる。
直人が後ろへ来るたび、分かる。
袖が少し動く音。
足音。
背中側だけ温度が少し違う感じ。
それなのに直人は何もしない。
肩にも触れない。
腰にも手を置かない。
髪にも触れない。
ただ近くへ来る。
そして離れる。
結衣はだんだん思う。
何なの?。
一週間ほど経った夜だった。
雨が降っていて、客が引くのが早かった。
閉店時間を少し過ぎたころには、店内はもう静かだった。
結衣が最後の皿を洗っている。
直人は鍋を片づけている。
食洗機が止まる。
急に店が静かになる。
結衣が皿の水を切っていると、また後ろへ直人が来た。
今度は離れない。
結衣は皿を一枚拭く。
まだいる。
二枚目。
まだいる。
三枚目。
さすがに振り向く。
「何」
直人は棚のほうを見た。
「皿」
「どの皿?」
一瞬止まる。
「……それ」
「これ?」
「うん」
結衣は手に持っていた皿を見る。
「これ、ここに戻す皿だけど」
「うん」
「直人が取る必要ないよね」
「ないね」
とうとう結衣が笑う。
「何なの、ほんとに」
直人も少し笑った。
でも、離れない。
結衣はそこで初めて、直人の顔をきちんと見る。
普段とあまり変わらない。
けれど目だけが少し落ち着かない。
何度かこちらを見て、すぐ別のところを見る。
結衣は皿を置いた。
「何か言いたいの?」
直人は答えない。
「なんかあるでしょ」
「……まあ」
「じゃあ言えば」
そこで直人が困る。
本当に困った顔をする。
結衣はその顔を見て、ようやく分かる。
この人は何か隠しているのではない。
言葉にするところまで行けていない。
「今日じゃなくてもいいけど」
結衣がそう言う。
直人は少し安心したような顔をする。
その顔を見た瞬間、結衣はなぜか腹が立った。
「でも」
直人が見る。
「ずっと私の後ろをうろうろするのはやめて」
「うろうろはしてない」
「してる」
「……はい」
「気になるから」
それを言うと、直人が少しだけ結衣を見る時間が長くなった。
結衣も視線を外さない。
「何が?」
「直人が」
言ったあと、結衣は自分で少し後悔する。
あまりに直接的だった。
しかしもう戻せない。
直人が黙る。
数秒。
結衣は耐えきれなくなって、布巾を取った。
「カウンター拭く」
「うん」
また逃げた。
今度は二人とも。
そのあと十分ほど、何も起きない。
二人で黙って片づける。
結衣はカウンターを拭く。
直人は厨房の火元を確認する。
冷蔵庫を見る。
ゴミ袋を縛る。
普段より丁寧なくらい、仕事をする。
こういうときに限って直人はよく働く。
やることがある限り、やる。
結衣はそれを知っている。
だから、最後の最後まで待つ。
やがて本当にやることがなくなる。
椅子も上げた。
床も拭いた。
食器も戻した。
ゴミもまとめた。
直人が入口の照明を一つ落とす。
店が少し暗くなる。
結衣は鞄を持つ。
「じゃ、帰るね」
「結衣」
直人が呼んだ。
結衣は振り返る。
直人はカウンターの向こう側にいる。
「何?」
「ちょっと」
「うん」
そこでまた黙る。
結衣は待つ。
直人の指がカウンターの縁に触れている。
それを見ていると、普段とは違って少し緊張しているのが分かる。
「俺さ」
「うん」
「結衣といるの、好きなんだよね」
結衣は黙る。
悪くない。
むしろ、かなりいい。
胸の内側が少し熱くなる。
でも直人は続ける。
「店にいるのも楽だし」
嫌な予感がする。
「話してても楽だし」
まだ大丈夫。
「だから、その……」
来る。
結衣は待つ。
直人は少し目を伏せる。
「結衣も、もし今みたいなの嫌じゃなければ」
結衣の中で何かが止まる。
直人はまだ続ける。
「もうちょっと、その……こういう感じでいてもいいかなって」
結衣はしばらく黙った。
直人も黙る。
「……何それ」
直人が顔を上げる。
「何って」
「私が嫌じゃなければ?」
「うん」
「じゃあ、私が嫌じゃなかったら何でもいいの?」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「じゃあどういう意味?」
直人が困る。
結衣は怒鳴ってはいない。
でも明らかに機嫌が変わった。
直人にも分かる。
「結衣がどう思ってるか分かんないから」
「聞けばいいじゃん」
「聞いてる」
「聞いてない」
即答だった。
直人が黙る。
結衣は鞄の持ち手を握り直す。
「直人は?」
「俺?」
「そう」
直人は答えようとする。
「俺は……」
止まる。
結衣は待つ。
直人の顔には、本当に答えを探している様子がある。
それが結衣には余計に腹立たしい。
「私が嫌じゃないなら、一緒にいたいの?」
「それは……」
「私が付き合いたいって言ったら付き合う?」
直人は少し考えて、
「うん」
と言う。
結衣の眉がわずかに動く。
「じゃあ私が言わなかったら?」
直人は答えない。
結衣は息を吐く。
「直人、それずるい」
「……ずるい?」
本人には分からない。
その顔がまた腹立たしい。
「全部、私に決めさせるじゃん」
「そんなつもりないけど」
「あるよ」
「ないよ」
「ある」
珍しく、結衣が言い切る。
「私が嫌じゃなかったらとか、私がそうしたいならとか」
直人は黙る。
「直人がどうしたいか、何にも言ってない」
直人の表情が止まる。
たぶん、初めてそこを指摘された。
結衣も、言ってから少し胸が痛む。
直人が悪意でやっているわけではないことは分かっている。
むしろ逆だ。
だから厄介なのだ。
「私、自分で決めるよ」
結衣は静かに言う。
「直人が何て言っても、嫌なら嫌って言うし」
直人を見る。
「でも、直人が何も言わないなら、私は何に返事すればいいの?」
直人は何も言えない。
結衣はしばらく待つ。
それから、
「帰る」
と言う。
「結衣」
「怒ってはいる」
先に言う。
「でも、嫌いになったとかじゃないから」
直人が少しだけ安心する。
それを見て、結衣はまた少し腹が立つ。
「その顔も腹立つ」
「ごめん」
「謝らなくていい」
入口まで行く。
ドアに手をかける。
そこで振り返る。
「考えて」
「何を?」
結衣は本気で呆れる。
「直人がどうしたいか」
その夜、直人は店に一人残る。
別に大事件が起きたわけではない。
振られてもいない。
怒鳴られてもいない。
なのに、ものすごく疲れている。
カウンターに手を置いたまま、結衣の言葉を考える。
直人がどうしたいか。
簡単なはずだった。
店なら答えられる。
何を作りたいか。
どんな店にしたいか。
明日何を仕入れるか。
全部答えられる。
結衣のことだけ、答えようとすると、
「結衣はどう思うだろう」
が先に出る。
そこで直人は初めて気づく。
自分は結衣の気持ちを尊重しているつもりだった。
実際、尊重している。
でも同時に、自分が欲しいと言わなければ、自分は拒まれない。
そこまで考えた瞬間、少し嫌になる。
結衣に拒絶させたくなかった。
結衣を困らせたくなかった。
でも、それだけではない。
自分も困りたくなかった。
直人は厨房を見る。
結衣がさっきまで立っていた場所を見る。
そこでようやく、ものすごく単純な答えが出てくる。
結衣が来ると嬉しい。
帰ると少し寂しい。
近くへ行きたい。
他の人といると少し気になる。
店の外でも会いたい。
自分の休日に結衣がいるところを想像する。
それを全部まとめれば、答えは別に難しくない。
付き合いたい。
でも、その「それだけ」を結衣に言うのが難しい。
翌日、結衣が店に来ない。
来る予定の日ではない。
だから何もおかしくない。
それでも直人は何度か入口を見る。
二日後、結衣が来る。
いつも通り。
「お疲れ」
「お疲れ」
普通に話す。
結衣も普通だ。
直人はそれでまた少し安心する。
そして自分で気づく。
また安心して終わろうとしている。
このままなら、たぶん結衣は普通にいてくれる。
だからこそ言わなければならない。
閉店後。
結衣がグラスを拭いている。
直人は厨房から出てくる。
いつもの癖で、結衣の後ろへ行きかける。
途中で止まる。
結衣が気づく。
「何?」
「いや」
直人は一度息を吐く。
今度は後ろへ回らない。
結衣の正面へ行く。
結衣が真っ直ぐ直人を見る。
「この前の」
「うん」
「考えた」
「うん」
直人はまた黙りそうになる。
でも今度は結衣が助けない。
「それで?」とも言わない。
ただ待つ。
直人は自分で言わなければならない。
「俺」
一度止まる。
「結衣と付き合いたい」
結衣の表情がほとんど変わらない。
それが直人には怖い。
だから思わず、
「結衣が――」まで言いかけて止める。
結衣がわずかに眉を上げる。
直人は自分で言い直す。
自分でも癖が分かった。
結衣は黙っている。
「付き合いたい」
言えた。
「もっと店の外でも会いたいし」
「結衣が来ると嬉しいし、帰ると……まあ、ちょっと寂しいし」
結衣の口元が少し動く。
直人は続ける。
「最近後ろにいたのも」
「うん」
「あれ、多分、近くにいたかった」
結衣がとうとう笑う。
「多分?」
直人も少し笑う。
「だから」
直人が結衣を見る。
「付き合ってほしい」
言えた。
「嫌ならいい」「すぐ答えなくていい」「今まで通りでもいい」全部、喉まで来る。
でも言わない。
言っちゃっいけない。
結衣は直人を見る。
内心、かなり嬉しい。
でもそのまま「うん」と言うのは少し癪だ。
「遅い」
「……ごめん」
「それも違う」
「え」
「謝るところじゃない」
直人が少し困る。
結衣は笑う。
その顔を見て、直人もようやく少し肩の力が抜ける。
「じゃあ」
結衣が言う。
「もう一回」
「何を?」
「聞いて」
直人は一瞬考える。
今度はちゃんと言う。
「結衣、俺と付き合ってください」
結衣はほんの少しだけ間を置く。
それから、「うん」と言う。
直人が笑う。
結衣も笑う。
でもそのあと二人とも何をしていいか分からない。
急に恋人になったからといって、店内の照明も音楽も変わらない。
冷蔵庫は唸っている。
布巾はカウンターに置かれたまま。
床にはまだ少し水滴がある。
直人が、「……じゃあ」と言う。
結衣が見る。
「何?」
「いや」
また困る。
「今度は何を私に決めさせるつもり?」
「違う」
「じゃあ言って」
直人は笑う。
少し考える。
「手、つないでいい?」
結衣は一瞬だけ黙る。
「それは聞くんだ」
「これは聞く」
「何が違うの」
「分かんない」
その答えが直人らしい。
結衣は笑いながら、その手を握る。
直人も握り返す。
「この告白をタロットで読むと、一度目と二度目では違うカードが現れます。

