「俺の女」という感覚とDV

sponsored link

ワイドショーで後藤真希さんの不倫が、

母親の浮気という立場で語られていました。

その中でダウンタウンの松本人志さんが

妻の浮気は誰にも話したくないという

ようなことを言いながら何でだろうと

言っていると、ゲストの小島瑠璃子さんが

「俺の女」を取られたという感覚について

述べたところ、松本人志さんが、

小島瑠璃子さんに解決されてしまったと

呟かれていました。

究極的な例かも知れませんが、「俺の女」

という概念のない民族ではDVはない

そうです。

日本も大昔はこれに近い状態がありました。

つまりお互いの意思で、誰とでも自由に

深い仲になって良いのです。

気持ちは変わりますし、様々な人に愛情を

抱くという意味でも変化はあります。

近代社会では権利の構成が明確になり、

ナチュラルな恋愛関係のゴールがお互いを

所有物として所有権の獲得といった様相を

呈するようになります。

それを客観的に捉えたものが、結婚における

契約書で、離婚するときの条件を結婚時に

取り決める人たちもいます。

もちろん、子供は母親を神聖視する部分も

ありますから、気の毒と言えば気の毒ですが

離婚すれば再婚もあります。

浮気しても子供にとっては良い母親という

場合もあれば、良き母を演じながら子供を

徹底的に虐待したり、自分のお人形にする

母親もいます。

一つの傾向として言えることは、DVが

正当化される根底には「俺の女」という

意識があります。

「俺の女」という意識の繋ぎとめがない

男女関係に不安定さがあるのは事実ですが、

本来はとても自由な関係であり様々な関係が

あることを考慮すれば違う世界が見えてきます。

ただし、違うものが見えても現代社会の

意識環境が変化するわけではありません。

愛上面だけで向き合える関係でなければ

暴力を使用するということになるでしょうが、

そのような関係ならば止めた方が健全です。

sponsored link
コメントの入力は終了しました。
error: Content is protected !!