自分と他者の幸福が両立しないとき、愛は何を要求するのか
「人を愛することは大切だ」
これは、多くの人が納得できる言葉だと思います。
けれど、少し真剣に考え始めると、すぐに難しい問題にぶつかります。
他者を愛することを優先しすぎれば、自己犠牲になってしまう。
反対に、「まず自分を愛することが大切だ」と考えすぎれば、自己中心主義になってしまうかもしれない。
では、自分の幸福と他者の幸福が、本当に両立しないとき、愛は何を要求するのでしょうか。
今回は「愛」を単なる感情ではなく、一つの倫理として考えてみたいと思います。
「自己愛 vs 他者愛」という構図そのものを疑ってみる
たとえば、恋人からこう言われたとします。
「あなたとは別れたい」
私は一緒にいたい。
相手は離れたい。
表面的には、
私の幸福 ↔ 相手の幸福
が衝突しています。
ここで自己愛だけを考えるなら、
「私は苦しみたくない。だから別れを認めない」
となるかもしれません。
反対に、他者愛だけを考えるなら、
「あなたが幸せなら、私はどれだけ傷ついても構わない」
となるかもしれない。
けれど、本当に愛がある状態とは、そのどちらなのでしょうか。
おそらく、どちらでもありません。
なぜなら、
自分も相手も、同じように大切にされるべき人間だからです。
すると問いそのものが変わります。
「どちらが犠牲になるべきか」
ではなく、「双方の人格と自由を尊重したうえで、この状況をどう生きるか」
という問いになるのです。
「相手を愛する」と「相手の望みを叶える」は違う
ここには重要な区別があります。
愛することは、
相手の要求を何でも受け入れることではありません。
たとえば、依存症になっている人から、
「お金を貸してほしい」
と言われたとします。
本人は本気でそれを望んでいる。
けれど、お金を渡すことによって依存がさらに深刻になるのであれば、要求を拒否するほうがその人を大切にしている可能性があります。
子どもが、「学校なんか行きたくない。ずっとゲームをしていたい」
と言った場合も似ています。
本人が望んでいることと、本人にとって本当に良いことは、必ずしも一致しません。
つまり、他者愛とは、他者への服従ではない。
愛が向かうのは、相手の目の前の欲望ではなく、もっと広い意味での「その人の幸福」だからです。
同じことは「自己愛」にも言える
そして面白いことに、これは自分自身についても同じです。
自己愛とは、自分の欲望を何でも叶えることではありません。
ケーキを10個食べたい。
でも、身体には良くない。
明日の仕事を全部放棄して遊びたい。
でも、長期的には自分を苦しめるかもしれない。
恋人を失いたくないから束縛したい。
しかし、その結果、自分自身も嫉妬や恐怖の中で生き続けることになる。
つまり、「自分が今欲しいもの」と「自分にとって本当に良いもの」も違う。
ここを区別すると、「自己愛と他者愛の衝突」だと思っていた問題の一部が、実は別のものだったことが見えてきます。
それは、「自分の欲望」と「相手の幸福」の衝突
だったのかもしれません。
それでも、本当に幸福が衝突することはある
もちろん、すべての問題がこの区別だけで解決するわけではありません。
親の介護を続ければ、親は安心する。
けれど、自分は精神的にも経済的にも限界に近づいている。
会社を辞めれば、自分は救われる。
けれど、残された同僚の負担は増える。
恋人について外国へ行けば、恋人は喜ぶ。
けれど、自分は大切な仕事や家族との生活を失う。
こうした問題では、どちらか一方が悪いわけではありません。
それでも、両方の幸福を完全には満たせない。
ここで初めて、「愛とは何を選ぶことなのか」
という本当の倫理問題が現れます。
愛は「幸福の合計」を最大にすることなのか
一つの考え方は、
できるだけ多くの人を、できるだけ幸福にする
というものです。
これは一見、とても合理的です。
しかし、ここには難しい問題があります。
100人を幸福にするためなら、1人を犠牲にしてもいいのでしょうか。
社会全体の安定のためなら、少数者の自由を奪ってもいいのでしょうか。
幸福の「合計」だけで考えると、少数者の犠牲が正当化される可能性があります。
だから愛を倫理として考えるなら、幸福だけでなく、
一人ひとりを単なる道具として扱わない
という原則も必要になります。
全体の幸福を考える。
しかし、そのために個人の尊厳を踏み潰さない。
愛は、おそらくこの二つを同時に要求します。
だからこそ難しいのです。
一つの基準は「誰の自由を奪っているか」
自己愛と他者愛が衝突したとき、一つの有効な問いがあります。
「私は誰かを、自分の幸福のための道具にしていないだろうか?」
恋愛なら分かりやすいでしょう。
「私はあなたと一緒にいたい」
これは自分の気持ちです。
「できれば一緒にいてほしい」
これもお願いです。
しかし、「だから、あなたは私と一緒にいなければならない」
となった瞬間、性質が変わります。
自分の幸福のために、相手の自由を奪い始めているからです。
もちろん逆もあります。
「本当に私を愛しているなら、仕事を辞めて私について来られるはずだ」
と言われたとします。
そこでは「愛」という言葉が使われています。
しかし実際には、相手が自分の幸福のために、こちらの人生を手段として扱っている可能性があります。
だから愛を見るとき、
「誰がどれだけ我慢したか」ではなく、「互いの自由と人格が尊重されているか」
を見る必要があります。
では、自己犠牲は愛ではないのか
ここは少し慎重に考える必要があります。
自己犠牲そのものが悪いわけではありません。
親が危険に飛び込んで子どもを助ける。
自分の時間を削って病気の家族を看病する。
困っている友人のために予定を変更する。
こうした行為には、確かに愛があり得ます。
重要なのは、自発性です。
「私はあなたを大切に思っている。だから、これを差し出したい」
というのなら、それは贈与です。
しかし、「私を愛しているなら、これくらい差し出して当然だ」
となった瞬間、それは強制に近づきます。
つまり、愛による自己犠牲と、愛を理由に要求される自己犠牲は違う。
この違いは、とても大切です。
愛には「NO」が含まれる
ここまで考えると、少し意外な結論にたどり着きます。
成熟した愛には、ときに、
「NO」
が必要です。
「それはできない」
「そこまでは引き受けられない」
「あなたを大切に思っている。でも、これは受け入れられない」
こう言うことは、必ずしも冷たさではありません。
自分自身も愛の対象に含めるなら、
境界線を引くこともまた、愛の一部だからです。
反対に、何でも受け入れていると、
愛
↓
自己犠牲
↓
疲弊
↓
恨み
へと変化することがあります。
最初は、「あなたのためなら何でもする」だった。
けれど十年後には、
「私はあなたのために、これだけ犠牲になったのに」
となってしまう。
これは愛について考えるうえで、とても重要な逆説です。
自己愛を完全に排除した他者愛は、長期的には他者への憎しみに反転することすらある。
だから、自分を大切にすることは、必ずしも他者愛の反対ではありません。
むしろ、持続可能な他者愛の条件になることがあります。
愛の大きさを「犠牲の大きさ」で測らない
私たちはときどき、
「どれだけ犠牲にしたか」
によって愛の大きさを測ろうとします。
しかし、本当にそうでしょうか。
たくさん我慢した人ほど愛が深い。
自分を捨てた人ほど立派だ。
苦しみに耐えた人ほど相手を愛している。
この考え方は、ときに非常に危険です。
愛に近いのはむしろ、
自分も相手もできるだけ傷つけず、双方の人生がより豊かになる方向を探すこと
ではないでしょうか。
理想は、「私が100、あなたが0」
でも、「私が0、あなたが100」でもありません。
可能なら、私もあなたも生きられる「第三の選択肢」を探す。
愛にとって大切なのは、勝敗ではなく調和なのだと思います。
それでも「第三の道」が存在しないとき
しかし、ここでさらに難しい問題があります。
いつでも第三の選択肢が見つかるとは限りません。
極端な例として、救命ボートに一人しか乗れないとします。
二人とも助かる方法はない。
こうなると、「愛」という原理だけでは、答えは一意に決まりません。
愛は、「どの方向を目指すべきか」
を示すことはできる。
できる限り命を大切にすること。
人を単なる道具にしないこと。
互いの尊厳を認めること。
しかし、「具体的に誰を救うべきか」まで自動的に計算してくれるアルゴリズムではありません。
そこで必要になるのが、
正義。
公平性。
責任。
権利。
約束。
といった、愛とは別の倫理原理です。
つまり、愛は倫理の中心にはなれても、倫理のすべてにはなれない。
ここには、愛を最高原理として考える思想の限界があります。
愛は「感情」ではなく「姿勢」なのかもしれない
ここまでの話をまとめると、愛の意味そのものも変わってきます。
愛を、「相手を好きだという感情」
と定義してしまうと、限界があります。
嫌いな人を愛することはできなくなるからです。
しかし愛を、「自分と他者の生命・幸福・自由・尊厳を、本質的に価値あるものとして扱う姿勢」
と考えたらどうでしょうか。
すると、嫌いな人を「愛する」ことさえ可能になります。
好きになる必要はありません。
会いたくなくてもいい。
距離を取ってもいい。
危険な相手なら逃げてもいい。
必要なら警察に助けを求めてもいい。
それでも、
「この人にも人間としての価値がある」
というところまでは否定しない。
この意味での愛なら、
愛と正義は必ずしも対立しません。
「愛すること」と「所有すること」は違う
最後に、もう一度恋愛に戻ってみます。
「あなたが必要だから愛している」
という愛があります。
しかし、愛が成熟していくと、もう少し違う形になるのかもしれません。
「あなたを愛している。しかし、あなたが私の所有物である必要はない」
一見すると、愛が弱くなったように見えます。
しかし、実際には逆なのかもしれません。
執着は、「あなたを失ったら私は崩壊する」
という恐怖によって相手をつかみます。
成熟した愛は、「あなたを失えば私は深く悲しむ。それでも、あなたの自由を認める」
というところまで行く。
だから、執着の反対は、無関心ではありません。
執着の反対にあるのは、自由を含んだ愛なのかもしれません。
自己愛と他者愛は、実は一本につながっている
そう考えると、「自分を愛すること」と「他者を愛すること」は、本来それほど離れたものではありません。
自分を愛する。
だから、自分を誰かの奴隷にしない。
他者を愛する。
だから、他者を自分の所有物にしない。
双方の自由を認める。
それでも、互いを大切にする。
そこでは、「私は私の人生を生きる。あなたはあなたの人生を生きる。それでも私は、あなたの幸福を願う」
という関係が成立します。
そして、二人の人生が重なるのであれば、
「一緒に幸福になる方法を探そう」
と言える。
もしかすると、愛とは「自分を捨てること」でも「自分を最優先すること」でもなく、
自分も他者も、一人の人間として大切にし続けること
なのかもしれません。
しかし、ここからもっと難しい問題が始まる
ここまでは、基本的に「私」と「あなた」の話でした。
ところが、社会になると事情が変わります。
私の幸福。
あなたの幸福。
100万人の幸福。
それらを同時に扱わなければならなくなるからです。
しかも、他者を傷つける人、犯罪を犯す人、他者を搾取する人まで「人間として価値を持つ」と考えるなら、さらに難しい問いが生まれます。
愛のある社会は、人を罰していいのでしょうか。
あるいは、
一人の自由を制限することで100万人を守れるなら、その制限は愛と両立するのでしょうか。
個人と個人の間では美しく見えた「愛」という原理も、社会全体に広げた瞬間、正義、自由、権力、刑罰という問題にぶつかります。
ここから「愛」は、個人倫理だけではなくなります。
愛を社会の原理にできるのか。
次に考えるべきなのは、この「社会に対する愛」という、さらに難しい問題です。