納得出来ないけれども惹かれる(イエス)
妹が家を出て、三年になる。
喧嘩をしたわけではなかった。
ある朝、
「しばらく遠くへ行く」
と言って、それきり帰ってこなかった。
最初の一年は、ときどき連絡があった。
二年目から減った。
そして半年前から、何もない。
母はもう妹の話をしなくなった。
姉だけが、妹の部屋をそのままにしていた。
ある日の夕方、知らない男が訪ねてきた。
「こちら、佐伯さんのお宅ですか」
男は小さな段ボール箱を持っていた。
「以前、妹さんと一緒に働いていました」
姉は男を家に入れた。
箱の中には、本が三冊と、古いマグカップと、小さな写真立てが入っていた。
「妹は今、どこにいるんですか」
男は答えなかった。
「知ってるんですよね」
「はい」
「元気なんですか」
少し間があった。
「それも、僕からは言えません」
姉は男を見た。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味です」
腹が立った。
半年間、何の連絡もない。
母がどれだけ心配したか。
自分が何度電話をかけたか。
この男は知っている。
それなのに、何も言わない。
「家族なんです」
「分かっています」
「だったら教えてください」
男は首を振った。
「できません」
「妹に口止めされてるんですか」
男は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
姉は立ち上がった。
「帰ってください」
男も立った。
玄関まで行ったところで、男が振り返った。
「すみません」
「何がですか」
「何も話せないのに、来たことです」
「だったら、どうして来たんですか」
男は少し考えた。
「これだけは届けてほしいと言われたので」
姉は箱を見た。
「いつ?」
男は黙った。
まただ。
彼女は笑いそうになった。
この人は、何も言わない。
「あなた、妹のことが好きだったんですか」
初めて、男の表情が変わった。
ほんの少しだけ。
それから言った。
「それも、僕が話すことじゃないと思います」
男は頭を下げて帰った。
箱の中を調べれば、何か分かるかもしれなかった。
本に挟まった紙。
写真立ての裏。
マグカップの底。
彼女は一つずつ手に取った。
何もなかった。
最後の本を開くと、封筒が落ちた。
姉へ。
妹の字だった。
彼女は封筒を開けようとした。
そこで手が止まった。
封筒の裏に、小さく書いてあった。
――まだ心配しているなら、読まないで。
意味が分からなかった。
読めば分かる。
妹がどこにいるのか。
なぜ帰らないのか。
あの男が何を知っているのか。
全部ではなくても、何かは分かる。
彼女は長い間、封筒を持っていた。
そして、開けなかった。
三日後。
駅前で、あの男を見かけた。
向こうも彼女に気づいた。
男は軽く頭を下げ、そのまま通り過ぎようとした。
「待ってください」
男が止まった。
「手紙、読みました?」
「いいえ」
男は驚いた。
「読まなかったんですか」
「まだ」
彼女は聞いた。
「あなたは、妹がどこにいるか知っているんですよね」
「はい」
「私が何度聞いても、言わない?」
「言いません」
以前なら、その答えを冷たいと思っただろう。
家族を苦しませる人だと思っただろう。
けれど今は少し違った。
この男は、自分に何かを隠しているのではない。
妹から預かったものを、
妹が返していいと言うまで、
持っているだけなのだ。
「大変ですね」
男が首をかしげた。
「何がですか」
「秘密を持ってるのって」
男は少し笑った。
「慣れませんよ」
「そうなんですか」
「話した方が楽なこともありますから」
彼女は男を見た。
それなら、いつか話すこともあるのだろうかと思った。
妹の居場所ではない。
妹に口止めされたことでもない。
今は言えないことが、
いつか言えることになる日が来るのかもしれない。
それを待つことまで、
してはいけないわけではない。
「珈琲、飲みませんか」
男が驚いた。
「僕と?」
「はい」
「妹さんの話なら、何も――」
「分かってます」
彼女は言った。
「聞きません」
男は少し困ったような顔をした。
「じゃあ、何を話すんですか」
「別に何でも」
「何でも」
「天気とか」
男が空を見た。
曇っていた。
「話、続かなそうですね」
彼女は思わず笑った。
この人も、そんなことを言うのだと思った。
「じゃあ、珈琲の話でも」
「詳しくないですよ」
「私もです」
「もっと続かないじゃないですか」
今度は男も笑った。
二人で駅前の喫茶店に入った。
それから、男とはときどき会うようになった。
約束することもあれば、
偶然会うこともあった。
最初のうちは、
妹の話を避けているせいで、
会話には妙な穴があった。
仕事の話をしていても、
「以前の職場では」
と男が言ったところで、
ふっと言葉が止まる。
旅行の話をしていても、
「前に一度、北の方へ」
と言って、
その先を言わないことがあった。
彼女は聞かなかった。
聞けば、妹につながるのだろうと思った。
男も、ごまかそうとはしなかった。
ただ、話さなかった。
その代わり、
関係のないことは意外によく話した。
珈琲は詳しくないと言ったくせに、
苦いものは嫌いだった。
猫が好きなのに、
猫にはなぜか嫌われるらしい。
蕎麦を食べるときだけ妙に静かになる。
本屋に入ると長い。
映画は最後まで見ないと気が済まないくせに、
見終わったあと感想を聞くと、
「普通でした」
しか言わない。
「それ、ずるくないですか」
ある日、彼女は言った。
「何がですか」
「二時間も映画見て、普通でした、で終わるの」
「普通だったので」
「泣いてたじゃないですか」
男が黙った。
「見てたんですか」
「見えますよ、隣なんだから」
「見ないでください」
「秘密ですか」
そう言うと、
男は嫌そうな顔をした。
彼女は笑った。
いつの間にか、
そんな冗談を言えるようになっていた。
妹については、
何も分からないままだった。
手紙もまだ開けていなかった。
母には、男と会っていることを言わなかった。
なぜ言わないのか、
自分でもよく分からなかった。
後ろめたいわけではない。
ただ、説明すると、
男についてではなく、
妹についての話になってしまう気がした。
――あの人は何を知っているの。
――何か聞いた?
――妹は元気なの?
そう聞かれれば、
自分もまた聞きたくなるかもしれない。
だから言わなかった。
ある日、
二人で川沿いを歩いていた。
喫茶店が混んでいたので、
缶珈琲を買って、
しばらく歩くことになった。
男が言った。
「一つ、聞いてもいいですか」
「何ですか」
「どうして僕と会うんですか」
彼女は足を止めなかった。
「今さら?」
「今さらです」
「最初は」
そこで彼女は考えた。
正直に言えば、
最初は期待していた。
この人と何度か会えば、
何か分かるかもしれない。
妹の居場所。
妹が帰らない理由。
この人と妹の関係。
直接聞かなくても、
何かの拍子に話してくれるかもしれない。
言葉の端から、
何か見えるかもしれない。
たぶん、そう思っていた。
「最初は、あなたといれば、何か分かるかもしれないと思ってました」
男は黙っていた。
「やっぱり」
「やっぱり?」
「そうじゃないかと思ってました」
「嫌でした?」
「少し」
彼女は笑った。
「すみません」
「いえ」
しばらく歩いた。
「でも」
彼女は言った。
「最近は、あまり考えなくなりました」
「何を?」
「妹のことを聞けるかどうか」
男は何も言わなかった。
川の向こうを電車が走っていった。
「もちろん、知りたいですよ」
彼女は言った。
「今でも」
それは嘘ではなかった。
妹がどこにいるのか。
元気なのか。
どうして帰ってこないのか。
知りたくないわけがない。
「でも、あなたから聞かなくてもいいのかなって」
「どうしてですか」
「あなたが話せるようになったら、話すでしょう」
男が彼女を見た。
「話せないままかもしれませんよ」
「そのときは、そのときです」
「ずっと?」
「ずっとは困ります」
男が笑った。
「困るんですか」
「そりゃ困りますよ」
彼女も笑った。
「私、そんなにできた人じゃないので」
それから少しして、
男が言った。
「一つだけなら」
彼女は男を見た。
「何ですか」
「妹さんから預かった秘密とは関係ないことです」
彼女は待った。
「僕は、妹さんと付き合っていたわけではありません」
彼女はしばらく黙った。
「それ、言っていいんですか」
「僕自身のことなので」
「ああ」
確かにそうだった。
彼女は少し考えてから言った。
「じゃあ、あのとき私が、妹のこと好きだったんですかって聞いたのは?」
「答えたくなかっただけです」
「秘密じゃなかったんだ」
「何でも秘密にしないでください」
彼女は笑った。
「じゃあ、好きだったんですか」
男は彼女を見た。
「それは言いません」
「どうして」
「僕自身のことなので」
「さっきと言ってること違いません?」
「自分のことなら、話さない自由もあるでしょう」
それはそうだった。
彼女は笑いながら、
少しだけ腹が立った。
その日の帰り。
駅の改札で別れてから、
彼女は一人で電車に乗った。
窓に自分の顔が映った。
そこで、ふと思った。
男が妹と付き合っていなかったと聞いて、
自分は少し安心した。
なぜだろう。
妹との関係が一つ分かったからだろうか。
それなら、
もっと知りたくなるはずだった。
けれど違った。
妹のことではない。
男が誰かの恋人ではなかったことに、
安心したのだ。
そこまで考えて、
彼女は窓から目をそらした。
馬鹿みたいだと思った。
次に会ったとき、
男は何も変わっていなかった。
妹のことは話さなかった。
彼女も聞かなかった。
ただ、
男が珈琲を飲みながら話している横顔を、
前より少し長く見ていた。
「何ですか」
気づかれた。
「何でもないです」
「そうですか」
「はい」
男はそれ以上聞かなかった。
そのことが、
少し嬉しかった。
妹がどこにいるのかは、
まだ知らない。
なぜ帰らないのかも知らない。
手紙も開けていない。
男が何を知っているのかも、
ほとんど知らない。
けれど、
知らないことは以前ほど怖くなくなっていた。
秘密というものは、
いつか必ず明かされなければならないものではない。
話せる日が来れば、
話すこともある。
来なければ、
話さないこともある。
それでも人は、
秘密の外側にあるものだけで、
少しずつ誰かを知っていくことができる。
彼女はまだ、
男のことを好きだとは思っていなかった。
ただ、
次に会う約束をすると、
その日を少し楽しみにするようになっていた。
納得出来ないから会えない(ノー)
妹が家を出て、三年になる。
喧嘩をしたわけではなかった。
ある朝、
「しばらく遠くへ行く」
と言って、それきり帰ってこなかった。
最初の一年は、ときどき連絡があった。
二年目から減った。
そして半年前から、何もない。
母はもう妹の話をしなくなった。
姉だけが、妹の部屋をそのままにしていた。
ある日の夕方、知らない男が訪ねてきた。
「こちら、佐伯さんのお宅ですか」
男は小さな段ボール箱を持っていた。
「以前、妹さんと一緒に働いていました」
姉は男を家に入れた。
箱の中には、本が三冊と、古いマグカップと、小さな写真立てが入っていた。
「妹は今、どこにいるんですか」
男は答えなかった。
「知ってるんですよね」
「はい」
「元気なんですか」
少し間があった。
「それも、僕からは言えません」
姉は男を見た。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味です」
腹が立った。
半年間、何の連絡もない。
母がどれだけ心配したか。
自分が何度電話をかけたか。
この男は知っている。
それなのに、何も言わない。
「家族なんです」
「分かっています」
「だったら教えてください」
男は首を振った。
「できません」
「妹に口止めされてるんですか」
男は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
姉は立ち上がった。
「帰ってください」
男も立った。
玄関まで行ったところで、男が振り返った。
「すみません」
「何がですか」
「何も話せないのに、来たことです」
「だったら、どうして来たんですか」
男は少し考えた。
「これだけは届けてほしいと言われたので」
姉は箱を見た。
「いつ?」
男は黙った。
まただ。
彼女は笑いそうになった。
この人は、何も言わない。
「あなた、妹のことが好きだったんですか」
初めて、男の表情が変わった。
ほんの少しだけ。
それから言った。
「それも、僕が話すことじゃないと思います」
男は頭を下げて帰った。
箱の中を調べれば、何か分かるかもしれなかった。
本に挟まった紙。
写真立ての裏。
マグカップの底。
彼女は一つずつ手に取った。
何もなかった。
最後の本を開くと、封筒が落ちた。
姉へ。
妹の字だった。
彼女は封筒を開けようとした。
そこで手が止まった。
封筒の裏に、小さく書いてあった。
――まだ心配しているなら、読まないで。
意味が分からなかった。
読めば分かる。
妹がどこにいるのか。
なぜ帰らないのか。
あの男が何を知っているのか。
全部ではなくても、何かは分かる。
彼女は長い間、封筒を持っていた。
そして、開けなかった。
三日後。
駅前で、あの男を見かけた。
向こうも彼女に気づいた。
男は軽く頭を下げ、そのまま通り過ぎようとした。
「待ってください」
男が止まった。
「手紙、読みました?」
「いいえ」
男は驚いた。
「読まなかったんですか」
「まだ」
彼女は聞いた。
「あなたは、妹がどこにいるか知っているんですよね」
「はい」
「私が何度聞いても、言わない?」
「言いません」
以前なら、その答えを冷たいと思っただろう。
家族を苦しませる人だと思っただろう。
けれど今は少し違った。
この男は、自分に何かを隠しているのではない。
妹から預かったものを、
妹が返していいと言うまで、
持っているだけなのだ。
「大変ですね」
男が首をかしげた。
「何がですか」
「秘密を持ってるのって」
男は少し笑った。
「慣れませんよ」
「そうなんですか」
「話した方が楽なこともありますから」
男は少し迷ってから言った。
「もしよかったら、珈琲でも飲みませんか」
彼女は男を見た。
最初に会ったときとは、
もう違って見えた。
怪しい男ではなかった。
妹を奪った人でもなかった。
たぶん、信頼してもいい人なのだと思う。
だからこそ、彼女は首を振った。
「ごめんなさい」
男は少し驚いた。
「妹さんのことが気になりますか」
「いいえ」
彼女は鞄の中の手紙を思った。
「たぶん、逆です」
「逆?」
「あなたと会えば、いつか妹のことを聞いてしまうと思うから」
男は何も言わなかった。
「あなたが何も言わなくても、顔を見たり、言葉を聞いたりして、勝手に答えを探してしまう」
彼女は笑った。
「私はまだ、知らないままでいるのが、そんなに上手じゃないみたいです」
男も少し笑った。
「分かりました」
「箱を届けてくれて、ありがとうございました」
「はい」
二人はそこで別れた。
彼女は振り返らなかった。
男のことを嫌いだからではない。
むしろ、
もう少し知りたいと思った。
だから会わないことにした。
家に帰ると、
妹の部屋へ行った。
机の引き出しを開け、
封筒を入れた。
鍵はかけなかった。
いつか読むかもしれない。
読まないかもしれない。
妹が帰ってきたら、
本人から聞くかもしれない。
何も聞かないかもしれない。
それでいい。
彼女は初めて、
知らないことを、
知らないまま残して、
部屋の灯りを消した。
まとめ
彼女が向き合ったのは、男が抱えている秘密だけではありません。
この物語で女教皇が問いかけているのは、
「まだ知らない部分を持つ相手と、どう出会うのか」ということです。
彼女はこれまで、大切な人のことなら知っていて当然だと思っていました。
妹がどこにいるのか。
なぜ帰らないのか。
あの男は何を知っているのか。
分からないことがあると不安になり、
その空白を答えで埋めようとしていました。
しかし、人には誰にでも、
他人には開けない場所があります。
それは家族であっても、
恋人であっても、
これから好きになる人であっても同じです。
女教皇の左右には、
B(Boaz/ボアズ)とJ(Jachin/ヤキン)と記された二本の柱が立っています。
二本の柱は、別々に立っています。
けれど、その二本があるからこそ、そのあいだには「門」が生まれます。
この物語でも彼女は、一見すると両立しない二つのもののあいだに立ちます。
相手の秘密を守ること。
そして、それでも相手に近づいていくこと。
秘密を尊重するなら、
離れなければならないのでしょうか。
相手と親しくなりたいなら、
すべてを明かしてもらわなければならないのでしょうか。
女教皇が示しているのは、
その二者択一ではありません。
男は、妹から預かった秘密を話しません。
彼女も、その秘密を暴こうとはしません。
秘密は最後まで、秘密として残されています。
それでも二人は珈琲を飲み、
映画を見て、
くだらない話をして笑い、
また会う約束をすることができます。
分からない部分を残すことと、
誰かに近づいていくことは、
両立するのかもしれません。
秘密の内側へ踏み込まなくても、
その外側にある言葉や表情、
沈黙や時間を通して、
私たちは少しずつその人を知っていくことができます。
誰かと出会うと、私たちはその人を知ろうとします。
どんな人なのか。
何を考えているのか。
誰を好きだったのか。
自分をどう思っているのか。
もちろん、知ろうとすることが間違っているわけではありません。
けれど、知ることと、近づくことは同じではありません。
話してくれたことを受け取ることもできます。
まだ話してくれないことを、その人のものとして残しておくこともできます。
いつか話してくれるかもしれません。
最後まで話してくれないこともあるかもしれません。
その不確かさを残したままでも、
人と人との関係は始めることができます。
女教皇の知恵の門は、秘密を暴いたから開くのではありません。
分からないものを無理に分かろうとせず、
それでも目の前の人と向き合えるようになったとき、
その二本の柱のあいだに、道が現れるのかもしれません。
出会いとは、相手のすべてを知ったあとに始まるものではありません。
私たちは、相手のことをほとんど何も知らないまま出会います。
そして、相手が見せてくれるものを少しずつ受け取っていきます。
話してくれたこと。
話してくれなかったこと。
笑ったこと。
黙ったこと。
そのどちらも含めて、目の前にいるその人なのです。
だから女教皇が「出会い」に現れたときに問われるのは、
閉ざされた扉を開けられるかどうかではありません。
閉じた扉があると知りながら、
それでもその人に会い続けることができるか。
そこに、このカードの「イエス」があります。
すべてを知らなくても、
人を信じることはできます。
そして、すべてを知らなくても、
誰かに惹かれていくことはできるのです。
もし、まだ分からない部分を持つ人に出会ったら、
あなたはどうするでしょうか。
すべてを知ってからでなければ、
近づけないでしょうか。
それとも、知らないものをその人のものとして残したまま、
もう一度、その人に会いに行くでしょうか。
分からないことと、出会うこと。
その二つをどちらも捨てずにいられたとき、
女教皇の二本の柱のあいだにある、
知恵の門が静かに開くのかもしれません。
