一人で旅立つ(ノー)
彼女は、三日後にこの町を出るつもりだった。
父の残した喫茶店を閉め、鍵を不動産屋に渡し、二度と戻らない。それだけ決めていた。
十年守った店だった。母が死んだあとも、父が倒れたあとも守った。だから最後くらい、自分で終わらせたかった。
閉店前日の朝、見知らぬ男が入ってきた。
「まだ、やっていますか」
「明日までなら」
男は窓際に座り、珈琲を一杯頼んだ。
それから夕方までいた。
翌日も来た。
旅行者だと思った。
話してみると、仕事を辞めたばかりだった。行き先も決めず、昨日この町に降りたという。
「怖くないんですか」
彼女が聞くと、男は笑った。
「怖いですよ。だから、どこへ行っても同じかなって」
無責任な人だと思った。
自分は十年間、父との約束を守った。店を守り、町を守り、逃げなかった。
なのに、この男には守るものすらない。
閉店後、男が海を見に行こうと言った。
断るつもりだった。
しかし、最後の夜だった。
二人で堤防を歩いた。
男は将来の話をしなかった。彼女がどこへ行くのかも聞かなかった。
ただ、暗い海を見ながら言った。
「ここ、いい町ですね」
腹が立った。
「何も知らないくせに」
男は黙った。
彼女は初めて、自分が泣いていることに気づいた。
町を嫌いだから出ていくのだと思っていた。
違った。
好きだった。
好きだから、ここで父の娘のまま年を取っていくのが怖かったのだ。
翌朝、彼女は店の鍵を渡した。
駅へ行くと、男がホームにいた。
「どこへ行くんですか」
「決めてません」
「私もです」
列車が来た。
男が尋ねた。
「一緒に乗ります?」
彼女は少し考えた。
「ごめんなさい」
男は笑った。
「ですよね」
彼女は反対側のホームへ向かった。
行き先の違う列車が、先に入ってきていた。
十年間、誰かとの約束を守って生きてきた。
だから最初の一歩くらいは、誰にもついていかず、自分で決めたかった。
列車に乗る。
窓の向こうで、男も別の列車に乗った。
名前さえ聞かなかった。
それでも彼女は、生まれて初めて、
行き先の決まっていない切符を買った。
一緒に旅立つ(イエス)
愚者――出会い
彼女は、三日後にこの町を出るつもりだった。
父の残した喫茶店を閉め、鍵を不動産屋に渡し、二度と戻らない。それだけ決めていた。
十年守った店だった。母が死んだあとも、父が倒れたあとも守った。だから最後くらい、自分で終わらせたかった。
閉店前日の朝、見知らぬ男が入ってきた。
「まだ、やっていますか」
「明日までなら」
男は窓際に座り、珈琲を一杯頼んだ。
それから夕方までいた。
翌日も来た。
旅行者だと思った。
話してみると、仕事を辞めたばかりだった。行き先も決めず、昨日この町に降りたという。
「怖くないんですか」
彼女が聞くと、男は笑った。
「怖いですよ。だから、どこへ行っても同じかなって」
無責任な人だと思った。
自分は十年間、父との約束を守った。店を守り、町を守り、逃げなかった。
なのに、この男には守るものすらない。
閉店後、男が海を見に行こうと言った。
断るつもりだった。
しかし、最後の夜だった。
二人で堤防を歩いた。
男は将来の話をしなかった。彼女がどこへ行くのかも聞かなかった。
ただ、暗い海を見ながら言った。
「ここ、いい町ですね」
腹が立った。
「何も知らないくせに」
男は黙った。
彼女は初めて、自分が泣いていることに気づいた。
町を嫌いだから出ていくのだと思っていた。
違った。
好きだった。
好きだから、ここで父の娘のまま年を取っていくのが怖かったのだ。
翌朝、彼女は店の鍵を渡した。
駅へ行くと、男がホームにいた。
「どこへ行くんですか」
「決めてません」
「私もです」
列車が来た。
男が尋ねた。
「一緒に乗ります?」
彼女は少し考えた。
「はい」
男が笑った。
「じゃあ、どこまで?」
「知りません」
彼女も笑った。
「あなたについていくわけじゃないから」
男は少し驚いて、それからうなずいた。
「僕も、あなたを連れていくつもりはないです」
二人で同じ列車に乗った。
隣には座らなかった。
男は窓際に座り、彼女は通路を挟んだ向かいに座った。
列車が動き出す。
十年間守った町が、ゆっくり後ろへ流れていった。
彼女は泣かなかった。
次の駅がどこなのかも知らなかった。
男の名前も、まだ聞いていなかった。
それでよかった。
十年間、誰かとの約束で行き先を決めてきた。
だから今度は、
誰かと一緒にいることさえ、
自分で選んでみようと思った。
まとめ
彼女が選んだのは、男ではありません。
一人でいることでもありません。
彼女が選んだのは、
自分で行き先を決めることです。
これまで彼女は、父との約束によって行き先を決めてきました。
店を守ること。
町に残ること。
父の娘として生きること。
そこにはいつも、進むべき道がありました。
けれど、その道がなくなったとき、
彼女は初めて、自分で切符を買います。
誰かと一緒に乗ることもできます。
一人で乗ることもできます。
誰かと一緒に行くことは、
その人についていくこととは違います。
一人で行くことも、
誰かを拒むこととは違います。
どちらを選んでも、
自分で選んだのなら、それは彼女の旅です。
愚者にとって重要なのは、
どちらの列車を選ぶかではありません。
行き先がわからないままでも、
自分で切符を買い、
自分の足で乗り込んだことなのです。
未知へ向かうことに、
正しい形があるわけではありません。
誰かと笑いながら向かってもいいのです。
最初の一歩だけは、
一人で踏み出してもいいのです。
大切なのは、
誰かが決めた道を歩くのではなく、
自分で選んだ一歩を踏み出すことなのかもしれません。
あなたなら、誰かと一緒に未知へ向かうでしょうか。
それとも、最初の一歩だけは、
一人で踏み出すでしょうか。
