土曜日の夕方、六時を少し回ったころだった。
店は駅から一本入った通りの二階にあった。
大きな窓の向こうで、日が落ちきる前の街がゆっくり青くなり始めている。
彼女が着いたときには、もう何人か集まっていた。
その中に、彼がいた。
写真は事前に見ていた。
そのときも特に何も思わなかったし、実物を見ても印象は変わらなかった。
――タイプじゃないな。
最初に浮かんだのは、それだった。
だから、少し安心した。
今日は普通に飲んで、普通に話して、普通に帰ればいい。
何かが始まる必要はない。
もう、そういうことには少し疲れていた。
彼女には、ほとんど決めていることがあった。
元彼と結婚する。
正式に決まったわけではない。
最近また連絡を取るようになり、向こうは明らかにそのつもりだった。
彼女も、それでいいと思っていた。
自分を好きでいてくれる。
仕事もしている。
性格も知っている。
何が嫌で、何なら許せるのかもわかっている。
昔みたいに好きかと聞かれれば、少し困る。
でも結婚は、好きだけでするものでもないだろう。
これまで、好きになった人とはうまくいかなかった。
付き合った人に「結婚は考えられない」と言われたこともある。
ほかに好きな人ができた、と去られたこともある。
そのたびに、次は大丈夫だと思った。
けれど何度か繰り返すうちに、少しずつ考え方が変わった。
自分が好きになった人に限って、自分を選ばない。
だったら、望みのほうを小さくすればいい。
誰にでも欲しいものが手に入るわけではない。
恋愛だけが例外であるはずもない。
手に入る幸せを選べばいい。
それは妥協ではない。
大人になるということだ。
そう考えるようになっていた。
話が変わったのは、本当にどうでもいいきっかけだった。
誰かが職場の人間関係の話をしていて、彼女も似たような出来事を思い出した。
「前にいたんですよ。絶対、自分では謝らない人」
「どんな人?」
彼が聞いた。
「自分が間違ってても、『そう受け取られたならすみません』って言うんです」
「ああ。謝ってないやつね」
彼女は笑った。
「そう、それ」
「それ、どうしてそんなに嫌だったの?」
彼女は一瞬、彼を見た。
てっきり彼自身の似た話が始まると思っていた。
けれど彼は黙って、続きを待っていた。
「……こっちが悪いみたいになるじゃないですか。受け取り方の問題にされるから」
「なるほど。じゃあ、かなり腹立った?」
彼女は吹き出した。
「腹立ちましたよ」
「今もちょっと怒ってるもん」
「怒ってないです」
「目が怒ってる」
「それ失礼じゃない?」
二人とも笑った。
それから仕事や旅行、住んでみたい街の話をした。
昔付き合っていた人の話になって、彼女は何気なく言った。
「私、たぶん元彼と結婚するんですよ」
彼が少し驚いた。
「復縁したの?」
「まだ」
「まだ?」
「向こうはそのつもりだと思う」
「あなたは?」
彼女は少し考えた。
「たぶん、それでいいかなって」
「好きなの?」
「昔はね」
「今は?」
「嫌いじゃないよ」
彼は何も言わなかった。
その沈黙が少し長くて、彼女はなぜか説明したくなった。
「向こうは私のこと好きだし。ちゃんと働いてるし。どういう人かわかってるし。結婚するなら、そういう人のほうがいいじゃないですか」
「うん」
「安心できるし」
「うん」
「一緒に暮らすなら、好きとかより大事なこともあるし」
「そうかもね」
そこで話が終わると思った。
けれど彼はグラスを置いて、何でもないことのように聞いた。
「でも、本当は?」
彼女は彼を見た。
「何?」
「本当は、好きって思える人と結婚したいんじゃない?」
彼女は答えなかった。
その言葉が意外だったからではない。
あまりにも、知っている言葉だったからだ。
いつか好きな人と結婚したい。
好きになった人に、好きになってもらいたい。
この人と生きたいと思って、その人にもそう思ってもらいたい。
昔の自分は、それを簡単な願いだと思っていた。
いつから、そんなものは夢を見る人間の考えることだと思うようになったのだろう。
「……そんな人、見つかるかな」
思ったより小さな声になった。
彼は少し考えた。
「わからない」
「わからないんだ」
「そりゃ、わからないよ」
「じゃあ元彼のほうがいいじゃん」
「そうかもしれない」
「何それ」
二人とも笑った。
それで話は終わった。
けれど彼女の中では、終わらなかった。
会が終わったのは九時半を過ぎたころだった。
駅まで彼と同じ方向だった。
横断歩道で信号を待ちながら、彼女は元彼と結婚した未来を考えた。
朝起きる。
仕事へ行く。
帰ってくる。
一緒に食事をする。
休日に買い物へ行く。
たまに喧嘩する。
旅行する。
年を取る。
想像できた。
悪くなかった。
穏やかだった。
何より、そこには道があった。
ここから先へ歩けば、たぶんそこへ着く。
道順までわかっている。
その隣に、もう一つの未来があった。
好きな人と結婚する未来。
そこには何もなかった。
相手の顔もない。
出会い方もない。
好きになってもらえる保証もない。
道すらなかった。
以前なら、それを可能性と呼んだかもしれない。
今の彼女には、何もない場所にしか見えなかった。
「どうしたの?」
彼が聞いた。
「考えてた」
「元彼?」
「うん」
信号が青になった。
彼が歩き出した。
彼女は一瞬遅れて、そのあとを歩いた。
駅で別れ、電車に乗るとスマートフォンが震えた。
元彼だった。
『明日、何時にする?』
明日は会う約束をしている。
そこで結婚の話をすることになっていた。
昨日までなら、答えはほとんど決まっていた。
たぶん、「うん」と言う。
彼女は『13時でいいよ』と返した。
家に着いて、カレンダーを開いた。
明日の予定。
十三時。
元彼の名前。
その下には、何も入っていない日が並んでいた。
十月。
十一月。
十二月。
来年。
空白ばかりだった。
今までは、その空白が不安だった。
元彼と結婚すれば、この空白には名前がつく。
夫。
家。
生活。
家族。
ずっと遠くまで一本の道ができる。
画面には、何も予定のない一週間が表示されていた。
白かった。
その白さを見ているうちに、ふと思った。
空白なのではなく、まだ何も書かれていないだけなのかもしれない。
元彼との生活を書くことができる。
知らない誰かとの未来を書くこともできる。
一人でいる未来も。
別の街に住む未来も。
結婚しない未来も。
どれも、まだ消えていない。
そう思った瞬間、自分の人生が急に広くなった。
そして、広くなった分だけ怖くなった。
答えがない。
標識もない。
ここへ行けば幸福になれると教えてくれる人もいない。
彼女は窓を開けた。
夜の空気が入ってきた。
少し身を乗り出して下を見ると、道路が思っていたより遠かった。
怖くなって、すぐ離れた。
なぜか笑いそうになった。
怖いに決まっている。
先が見えないのだから。
翌日、十二時五十分。
彼女は元彼との待ち合わせ場所にいた。
昼食を食べ、仕事や共通の友人の話をした。
楽だった。
この人は、彼女のコーヒーに砂糖がいらないことを知っている。
彼女は、彼がトマトを嫌いなことを知っている。
知らない人と一から始めなくていい。
そのことが、ひどく優しいことのように感じられた。
やはり、この人なのかもしれない。
食後のコーヒーが運ばれてきたころ、元彼が言った。
「この前の話、考えてくれた?」
「うん」
「どう?」
彼女はコーヒーカップを見た。
悪い理由はなかった。
だから、「うん」と言えばよかった。
けれど。
――本当は、好きって思える人と結婚したいんじゃない?
昨日の声が蘇った。
彼女は目の前にいる人を見た。
嫌いではなかった。
大切でもあった。
この人と生きていくことだってあり得ると思った。
それでも、言葉が出なかった。
「ごめん」
元彼の表情が変わった。
「無理ってこと?」
「違う」
「じゃあ何?」
彼女自身にもわからなかった。
ほかに好きな人がいるわけでもない。
待っていれば誰かに出会えるという自信もない。
「もう少しだけ、待ってほしい」
「どれくらい?」
「わからない」
「誰かいるの?」
「いない」
「じゃあ、何を待つの?」
答えられなかった。
本当に、その通りだった。
誰もいない。
何もない。
彼女は、何もないもののために、目の前にあるものを待たせようとしている。
馬鹿みたいだと思った。
それでも、「ごめん」と、もう一度言った。
元彼は小さく息を吐いた。
「わかった」
駅まで一緒に歩いた。
改札の前で元彼が言った。
「連絡して」
「する」
「ちゃんとね」
「うん」
彼は改札を通った。
間違えた気がした。
追いかければ、まだ間に合う。
今なら、やっぱり結婚しよう、と言える。
彼女は一歩、改札へ近づいた。
そのまま二歩目を出せばよかった。
けれど、出なかった。
元彼の姿が人の流れの向こうへ消えた。
足元にあった道が、急になくなったように感じた。
その日の夜、スマートフォンが震えた。
昨日の彼だった。
『昨日はありがとう』
『こちらこそ』
『今日、結婚の話するって言ってなかった?』
余計なお世話だと思った。
昨日一度会っただけなのに。
『しました』
『どうなった?』
『保留にしました』
少し間があった。
『そっか』
それだけだった。
『それだけ?』
送ってから、なぜそんなことを聞いたのだろうと思った。
『何て言えばいいかわからなくて』
続けて、
『昨日あんなこと言ったのに。俺のせい?』
彼女は指を止めた。
違う。
そう書こうとして、やめた。
彼の言葉がなければ、たぶん今日「うん」と言っていた。
でも、彼が作った気持ちでもなかった。
ずっと自分の中にあった。
見ないようにしていただけだった。
『わからない』
『ごめん』
彼女は少し笑った。
『謝るんだ』
『一応』
『そう受け取られたならすみません、じゃなくて?』
笑っている顔のスタンプが来た。
彼女も笑った。
金曜日、彼から連絡が来た。
『明日暇?』
『夕方なら』
『コーヒー飲まない?』
デートとも書いていない。
会いたいとも書いていない。
『いいよ』
翌日、二人でコーヒーを飲んだ。
彼女はアイス。
彼はホットだった。
「暑くない?」
「店の中寒いから」
「おじいちゃんみたい」
そんな話をして、仕事の話をして、映画の話をして、彼が最近買った椅子の話になった。
彼が値段を言った。
彼女は黙った。
「何、その顔」
「理解できない」
「座ったらわかる」
「椅子にそんなに払う人とは結婚できない」
言ってから、彼女は止まった。
彼も一瞬止まった。
「急に結婚候補から外された」
彼女は笑った。
「入ってたみたいに言わないで」
「一瞬入ってたのかと思った」
「入ってない」
「残念」
軽い言い方だった。
なのに、そのあと少しだけ彼の顔を見られなくなった。
帰り道、彼が聞いた。
「元彼とは?」
「まだ保留」
「そっか」
「何?」
「何も」
「じゃあ、なんであの日あんなこと言ったの?」
彼はしばらく黙った。
「自分を説得してるように見えたから」
「私が?」
「元彼と結婚したいって」
彼女は少し腹が立った。
「別にいいじゃん。現実的に考えたら、そういう結婚だってあるでしょ」
「あると思う」
「結婚してから好きになることだってあるし」
「あると思う」
彼は全部肯定した。
「じゃあ何なの?」
彼はしばらく黙ってから、
「ごめん。本当に余計なことだったと思う」
と言った。
その瞬間、彼女は急に悲しくなった。
なぜなのかわからなかった。
家に着くころ、ようやく気づいた。
彼女は、彼に「余計なことだった」と思ってほしくなかったのだ。
数日後、彼女からメッセージを送った。
『椅子、そんなにいいの?』
『まだ疑ってる?』
『疑ってる』
『座らせたい』
『それ、家に来いってこと?』
『違う違う。店にも同じのあるから』
『逃げた』
『何から?』
『知らない』
椅子の話は五分で終わった。
そこから小学校の給食の話になり、嫌いだった教科の話になり、初めて一人暮らしをした日の話になった。
気づけば夜中の一時だった。
『寝ないと』
『明日仕事?』
『仕事』
『俺も』
『じゃあ寝なよ』
『そっちがね』
『おやすみ』
『おやすみ』
画面が止まった。
部屋が急に静かになった。
楽しかった。
その言葉が、少し怖かった。
元彼と結婚すれば、たぶん穏やかな生活になる。
その考えは今も変わらない。
ただ、以前とは一つだけ違っていた。
以前は、それ以外には何もないと思っていた。
今は、何かがあるかもしれないと思っている。
それが彼なのかは、まだわからない。
彼女は彼を好きではなかった。
少なくとも、まだ。
ただ、明日も話したいと思った。
元彼とは、そのあと二度会った。
二度目の日、彼女はようやく言った。
「結婚できない」
「誰かできた?」
「違う」
「じゃあ、なんで?」
彼女は言葉を探した。
「私、怖いから結婚しようとしてた」
元彼は黙った。
「この先、誰にも選ばれないかもしれないとか。一人になるかもしれないとか。あなたを断ったら後悔するかもしれないとか。そういうことばっかり考えてた」
「それの何が悪いの?」
「悪くないよ」
彼女は言った。
「でも、それを理由にあなたを選ぶのは違うと思う」
元彼は目を逸らした。
「俺はそれでもよかったけど」
その言葉が痛かった。
きれいな別れにはならなかった。
元彼は傷ついた。
彼女も傷ついた。
それでも、終わった。
家へ歩きながら、彼女は何度も泣いた。
長く知っている人。
自分を好きでいてくれた人。
選べば存在したはずの未来。
全部、自分で手放した。
三日後、彼から来た。
『生きてる?』
『生きてる』
『よかった』
『何で?』
『三日静かだったから』
その一文を見たとき、彼女は泣いた。
『元彼と終わった』
しばらくして、
『今から会える?』
と来た。
『会ってどうするの?』
『わからない』
少し間があった。
『でも一人でいたくないなら行く』
彼女はその文章を何度も読んだ。
「俺を選べ」とは書いていない。
ただ、一人でいたくないなら行く。
『来て』
と送った。
三十分後、彼はコンビニの袋を持って現れた。
「何それ」
「プリン」
「なんでプリン」
「こういうとき甘いものかなと思って」
「雑」
「じゃあ帰る」
「帰らないで」
言ってから、二人とも黙った。
彼女自身、自分の言葉に驚いていた。
彼は、「うん」とだけ答えた。
近所の公園のベンチでプリンを食べた。
彼女は元彼の話をした。
彼はほとんど何も言わなかった。
ときどき「うん」と言った。
「私、間違えたかな」
全部話し終えてから、彼女は聞いた。
彼はすぐには答えなかった。
「わからない」
「本当に何も教えてくれないね」
「だってわからないから」
「普通こういうとき、『間違ってないよ』って言うんじゃない?」
「言ってほしい?」
彼女は考えた。
「……わからない」
「じゃあ一緒だ」
彼女は少し笑った。
「怖い」
「うん」
「このまま誰とも結婚できなかったらどうしよう」
「うん」
「後悔したら」
「するかもしれないね」
彼女は彼を睨んだ。
「最悪」
「嘘ついてもしょうがないじゃん」
彼は少し笑ってから言った。
「でも、今決めたことを十年後の自分がどう思うかなんて、誰にもわからないよ」
「うん」
「後悔しない選択なんて、たぶんないんじゃない」
「うん」
「だから今の自分が、怖いからじゃなくて選んだなら、それでいいんじゃない」
風が吹いた。
「寒い?」
「ちょっと」
彼が上着を脱ごうとした。
「いい」
「でも」
「そういうの、やらなくていい」
「なんで」
「なんか恥ずかしい」
彼は笑った。
「じゃあ帰る?」
「もう少しいる」
「寒いのに?」
「うん」
二人でそのまま座っていた。
彼女はふと思った。
この人といると、答えがなくても、少しだけ平気だった。
それから季節が変わった。
二人は何度も会った。
彼が自慢していた椅子にも座った。
「どう?」
「普通」
「嘘つけ」
「……ちょっといい」
「ほら」
「でも高い」
「そこは認める」
彼女が仕事でひどく落ち込んだ日は、一時間だけ電話した。
まだ付き合ってはいなかった。
手もつないでいなかった。
彼女は、ときどき考えた。
彼は自分をどう思っているのだろう。
もしかすると、自分だけが少しずつ好きになっているのではないか。
そう考えた瞬間、昔の恐怖が戻ってきた。
自分が好きになった人には、
選ばれない。
だったら、これ以上好きになる前に離れたほうがいい。
返信を遅くした。
誘われても予定があると言った。
連絡が減った。
これでいい。
まだ戻れる。
そう思った。
なのに朝起きると、彼から何も来ていないことを確認した。
スマートフォンが震えるたびに、彼かもしれないと思った。
違うと、少しがっかりした。
ある金曜日、彼から来た。
『何かした?』
『何が?』
『最近避けられてる気がする』
『忙しいだけ』
十分ほどして、『そっか』と返ってきた。
その夜、彼女はほとんど眠れなかった。
翌日の昼、自分から送った。
『今日会える?』
『会える』
夕方、二人は最初に二人きりでコーヒーを飲んだ店で会った。
彼女はアイスコーヒー。
彼はホット。
「またホット?」
「だから冷房が」
「知ってる」
彼が少し笑った。
その笑顔を見た瞬間、彼女は思った。
ああ。
好きだ。
ずいぶん静かな気づきだった。
雷が落ちるようなものではなかった。
胸が大きく鳴るわけでもなかった。
ただ、もう知らなかったころには戻れないと思った。
彼女は彼の冷房嫌いを知っている。
椅子にお金をかけることを知っている。
電話を切る前に必ず「じゃあね」と言うことも、疲れると口数が減ることも知っている。
そして、明日も、来週も、その先も、もっと知りたいと思った。
それを、好きというのだろう。
「どうしたの?」
彼が聞いた。
彼女は一度、息を吸った。
「私ね」
「うん」
「あなたのこと、好きになりそう」
彼が止まった。
「なりそう?」
「たぶん」
「たぶん?」
「うるさい」
彼は笑わなかった。
「だから避けてた」
「なんで?」
「怖かったから」
「何が?」
彼女は俯いた。
言いたくなかった。
ひどく恥ずかしかった。
けれど、もう逃げたくなかった。
「好きになって、また選ばれなかったら嫌だから」
彼は何も言わなかった。
「ごめん」
胸の奥が冷たくなった。
この始まり方を、彼女は知っていた。
「いいよ」
「何が?」
「わかったから」
「何を?」
彼が眉を寄せた。
「俺、何も言ってないけど」
「ごめんって言ったじゃん」
「気づかなかったから」
「何に?」
「避けてる理由」
彼女は黙った。
彼も黙った。
「俺は」
彼が言った。
「最初から結構好きだったよ」
彼女は彼を見た。
「嘘」
「なんで」
「いつから?」
「最初の飲み会」
「嘘」
「だからなんで」
「私、元彼と結婚するって言ってたじゃん」
「言ってた」
「なのに?」
「だから何も言わなかった」
彼女は彼の顔を見た。
最初に会った日。
タイプじゃない。
そう思った人。
その人が今、目の前にいる。
「じゃあ、なんであの日」
「うん」
「好きな人と結婚したいんじゃないって聞いたの?」
彼は少し困ったように笑った。
「半分は、本当にそう見えたから」
「半分は?」
「元彼と結婚してほしくなかったから」
彼女は何も言えなかった。
好きになった人に、好きになってもらいたい。
昔の彼女が当たり前のように願っていたこと。
いつからか、自分には起こらないと思ったこと。
彼女は急に泣きそうになった。
「何で泣くの」
「泣いてない」
「目が」
「それ言うなって言ったでしょ」
彼女は笑った。
笑ったら、少し涙が出た。
彼がティッシュを差し出した。
「付き合う?」
あまりにも普通に言うので、彼女はまた笑った。
「何、その言い方」
「じゃあどう言えばいい?」
「知らないけど」
「好きです。付き合ってください」
「急に中学生みたい」
「注文多いな」
彼女はティッシュで目元を押さえた。
それから、彼を見た。
怖かった。
今でも怖かった。
付き合ったからといって、結婚するとは限らない。
いつか別れるかもしれない。
彼の気持ちが変わるかもしれない。
自分の気持ちが変わるかもしれない。
何一つ保証はない。
元彼との未来のように、遠くまで見える道はなかった。
せいぜい、今日の店を出て、駅まで一緒に歩くところまでしか見えない。
その先は、まだ白かった。
以前なら、
何もないと思った。
今は違った。
まだ何も書かれていない。
それだけだった。
「うん」
彼女は言った。
「付き合う」
彼が笑った。
彼女も笑った。
店を出ると、外はもう暗くなっていた。
二人で駅へ向かった。
少し歩いたところで、彼の手が彼女の手に触れた。
一度離れた。
また触れた。
三度目に触れたとき、彼女のほうから、その手を握った。
彼も握り返した。
「何?」
彼が聞いた。
「何でもない」
「また考えてた?」
「うん」
「何を?」
彼女は前を見た。
駅へ続く道。
「先のこと」
「結婚?」
彼女は笑った。
「早いよ」
「じゃあ何」
「わからない」
彼も笑った。
「そっか」
「うん」
信号が赤になった。
二人で止まった。
彼女はつないだ手を見た。
この人と結婚するのかは、まだわからない。
いつまで一緒にいるのかもわからない。
一年後、自分がどこにいるのかもわからない。
以前の彼女なら、それを不安と呼んだ。
今も、少しは不安だった。
でも、不安だけではなかった。
信号が青になった。
彼が歩き出す。
彼女も歩いた。
今度は、一瞬も遅れなかった。

