美しい人が気がついた偽りの愛と正しい愛

毎日のようにスピリチュアルな対話を続けて

どのような経路で美しい人の中に闇が忍び込んで来たのか

イマジネーションではあるけれども理解出来てきました。

コミュニケーションが作り出す導管は、次第に様々なソードが

伝わるにように整備されてきています。

一人一人の存在は、スピリチュアルな対話の中継基地

みたいなものです。

多くの人が何かを感じています。

この何かは、もっとリアリティーを持つことが出来ます。

結局のところ支配するつもりで様々な動きをした結果、

かなり多くの人のスピリチュアルな部分を目覚めさせる

ことになるとは思いもしなかったでしょう。

実際に言葉のやり取りをしなくてもスピリチュアルな

コミュニケーションが発展していることをはっきりと

感じています。

子供が徹底的にイジメ殺される時にそのキャラクターの

配置には、必ずある下地があります。

明確に書けませんが、大雑把に言えば愛に縛られています。

もちろん、その子にとって正しい愛では、ありません。

しかし、何が正しくて何が正しくないか、決めるのは、

その子では、ありません。

ほとんどの場合が、その子を苦しめた人間たちが決めます。

そんな愛なら要らないと思うのですが、子供にとっては

愛(存在の承認に繋がる温もりや眼差し)が必要です。

無機質な空間で徹底的にこのような要素を排除して

赤ん坊を育てたらどうなるか実験した機関がありますが

全ての赤ん坊は、亡くなってしまいました。

存在の承認に伴う温もりは、必ずしも愛とは限りませんが

人格が取りあえず育つために絶対に必要なものです。

栄養が無ければ身体が育たないのと同じくらい必要です。

しかしそれは必ずしも正しい愛とは限らないのです。

美しい人は、気付いてしまったのです。

誰が正しくて誰が間違っていたか。

そうなると、もう引き返すことは、出来ません。

美しい人がどれだけ酷い目にあっても反撃し難くいのは

優しいからだけではありません。

それが愛の名の下に行われたからです。

そして、本当の意味で○なる者が不在でした。

何らかの偽り、少なくとも美しい人にとって不利益になる何かが

入って来る真っ黒な穴があったのです。

一般的な意味で家庭という密室で虐待されて育っても子供は

比較する手段がないので育った環境ごと人格に組み込まれます。

簡単に言えば、育った環境がどのようなものであれ、それが

当たり前になります。

どんなに頑張っても生き辛くあり得ない感情が湧いてくる時に

見直すべきものは愛です。

愛の正体を見破る必要があります。

誰が間違っていたのか誰が正しかったのか、気付くことでしか

救われる方法はありません。

そして美しい人は、気がつきました。

だから取りあえず長らく親しんだ愛と縁が切れても

良いと思ったのです。

何故なら実際的にもそうしないとあり得ないくらい理不尽なことが、

生涯続くのだと知ったからです。

行政機関が認めるほどのことが発生していたからです。

しかしここで冷静になるべきは、これがサターンリターンの

課題でもあったことです。

ただ当事者である美しい人は、冷静に乗り越えることは

出来ませんし、実際に冷静になる必要もありません。

離れられれば、それで良いのです。

独立出来れば、良かったのです。

ただ手放してくれれば、良かったのです。

これは、夫婦であれば離婚です。

面と向かって絶縁を叫ばなくても、親子であれば

絶縁みたいなものになるのでしょう。

それを行動に移さなければならないほどのことが愛を通して

美しい人に降りかかっていたのです。

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