死にたいくらい辛い時に神様が味方する場合としない場合

sponsored link

昨日、子供の頃よく遊んでいた場所で若い女性が線路に

飛び込みました。

直ぐに地元のテレビ局が来て遠方から撮った映像が

ニュースで流れました。

飛び散っていますから近付けないのです。

このような形で亡くなった方でも読経は、あげます。

当然です。

あまりにも当然です。

飛び込んだ理由は、分かりませんし、それぞれでしょうが

漠然とした不安に耐えられなくなった時に心は折れます。

正確に言えば命のエネルギーが流れている心のパイプが折れます。

その結果、命のエネルギーが循環しなくなります。

この循環を調整する弁は、心の傷です。

元気な時は、沢山の命のエネルギーを流せるでしょうし

しんどい時は、心の傷が痛くて広げることが出来ずに

命のエネルギーが滞ってしまいます。

心の傷を誤魔化さないで徹底的に生きようとする時に神様のような

存在は、味方しますがそうならない時もあります。

それはあやかしが傷つくことに耐えられない時です。

(あやかしとは、)

徹底的に生きようとすることは、根本的な傷とも言える

あやかしをあぶりだすことです。

これは、地獄です。

本来であればちょこっとあやかしが顔を出した時に気付いても

無視したり、何となく会釈する程度の関係でやり過ごしてしまうのに

心の傷を誤魔化さずに一生懸命に生きるということは、辛いから

避けていることを集中的に行い新しい傷を創ります。

それまで持っていた心の傷の位置を変えてしまう荒療治です。

こんなことは、誰でも耐えられることではありません。

あくまでも自分自身が嫌なことを基準に避けたり、それと

反対側の価値(自分にとって優しいもの)に近寄っていったりします。

それでまったく問題は、ありません。

普通と言う意味でですが、普通で良いと考えます。

sponsored link

徹底的に生きようとして新しい傷を創造するような行為は、

誰にでも出来ることではないのです。

何かしら目的意識があっても発狂しそうな思いをするはずです。

それは、誰でも乗り越えられることではないのです。

しかし何らかの理由でそれを行わないといけないような状況に

追い込まれた場合は、逃げるべきです。

それまでの自分自身を守る方法が無いから困っているわけですが

そのポイントで踏ん張って戦うという行為は、危険です。

自分自身のイメージが歪められる現実的な状況が発生します。

普通であればここで抵抗します。

苦痛ですし屈辱だからです。

しかし相対する力が圧倒的な場合は、そのままでは

耐えられないでしょう。

仮に耐え抜いたとしても、その結果新しい傷がどこかに

出来ています。

それを受け入れるしか生き残る道は、ありません。

これを拒否すると死にかけるか、死んでしまいます。

「心の傷を誤魔化さないで徹底的に生きようとする時に神様のような

存在は、味方しますがそうならない時もあります。」

と書きました。

味方してくれない時は、新しい傷を拒否した場合です。

これは耐え抜こうが逃げようが変わりません。

だったら素直に傷を受け入れてしまえば、それで良いことになります。

素直にと言う意味を「切る」ことで説明します。

外科医が手術で切ることも強盗が誰かを刃物で切ることも

「切る」という意味では同じですが消毒の有無や切り方

(綺麗に建設的な目的を持って切るとか)で、その後の縫合等の

処置等々異なります。

だったら素直に切られた方が良いのです。

言わば治療的な意味で切られてしまえるように自分自身が

動けば良いのです。

動くしかないのです。

これに対して選択の余地は、ありません。

そうすれば最小限の痛みで済みます。

もしかしたら麻酔だってある程度利くかも知れません。

不運期でも爽やかに過ごせる理由

sponsored link
error: Content is protected !!